水嶋ヒロの「KAGEROU」、15日の発売日に書店で買ってきました。
特別のファンではないけど、映画などの演技を観てて世間で言われているような人物とは違うんじゃないのかと思っていたんですよね。
映画を観てて、確かにカッコいいというテーマに辿り着きます。
だけれども、カッコいいと感じている世間一般のテーマと、私が感じているカッコいいのテーマとでは、なんかちょっと意味が違っている。毛色が違う、種類が違う、そんな感覚でしょうか。
だからといって、自分だけがあなたの良さを分かっているわ的な、そういう意味でのファンではないし。
ファンというよりもどちらかといったら割と好きな俳優といった感覚です。
ところで……
「KAGEROU」は、発売前から叩かれていましたよね。
本当の価値はどうあれ、この世に飛び出てくるクイは打たれます。
人間の力を遥かに超えた場合のみ、多くの人はその人物の能力を認めます。超人的な扱いとして認める。
実際は超人的ではなく、努力の賜物(たまもの)というだけなんですけど、まるで人の能力では到底追いつかないような行為(超人的)ということにしておけば、超人と、自分を比較したら負けて当然。
すなわち自分で見た自分の人としての価値が下落することはないので、優越感を所持したままになります。結果、多くの人間は超人的という表現をするのでしょう。
そうではない場合の多くがこきおろされ、出るクイは叩かれる。そして本物だけが生き残る。
実際「KAGEROU」を読み終えましたが、水嶋ヒロの作品がどの程度だとか、それは処女作なんで分からないんじゃないかと思いますよ。怒りを堪え、この場で説明しているとかそういうのではなく、素直にそう感じています。
処女作って誰の作品でも、多くはおぼつかないもので。
こう、かゆいところを掻いてくれないようなもどかしさがありますよね。
そういう意味で現時点では分からないんじゃないかと。
ただ、「KAGEROU」を読んでみて感じたことは、こういった類のストーリーは好きだなって正直思いました。
新人賞を取ったのも頷けたし、しっかり理解できましたよ。
それから出版されるにあたり、もともと水嶋ヒロは有名なのだから、ライターがいつもの時よりも頑張らなきゃいけない状況だったろうと、その辺は読む前から単純に思っていました。
当然、ここは水嶋ヒロで、こっちはライターで……。なんて、そんなことまで分かるはずも無い。少なくとも私には分からないし、仮に分かるかもしれない目を持っていたとしても、その部分を追求する理由が無い。
それにしても……
散々言われていますよね。
そんなにこきおろして何が楽しいのでしょうか。ばかくさい。
作品は作品として評価したら良いのに、作品としての評価じゃなく水嶋ヒロという人間を評価しているかのようなオゾマシイ光景が、ネット上で湧き上がっていますよね。
肩を持つとかそんなではなくて
踊り踊らされ、挙句の果てには恍惚な表情をしながら誰かを嘲笑う姿。醜いです。
ただ誰かが書いた小説は誰にでも受け入れられるものではないし、読む側のセンスの問題もある(感性ではなくセンスかと)。
なので、水嶋ヒロの小説が合わない人も存在するのは当然だと思う。
その場合それなりの評価になるのも必然。当たり前のことだと感じています。
その辺は趣向の問題なんじゃないかと。
それにしても……
なんなんですかね、このスッキリしないものは。
まあ、こうした世間のザワメキが流行をつくり、その結果を時代と言う。所詮、流行だけが地底を動かしているように見える。本当の姿はどうあれそれが時代の象徴であり、世の中を動かすウネリですよね。
たったそれだけのことなんですが、それでも時代の波を動かしているように見える人々、その類の人間の醜さが本当のことよりも気になります……。
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