おはようございます。
今日の福島市は朝から雨模様です。
さて、一晩やすんでどうにもならないモヤモヤが消えうせた私です。
寝て復活した感じですね。
というか、やはり、疲れている時というのは必要以上に物事を深刻化してしまう傾向があり、なんというか…そういう時はなにも考えないほうが1番だとつくづく思いますよ。
だいたい、疲れている時に考えたことって、最悪の方向でしか発想が沸かない。
しかも、その最悪の発想とは自分を苦しめる出来事を引き寄せる作業でもあるし、また、運を悪くしてしまう結果を招きますよね。
だから、疲れている時は考えない。
元気になったら考える。
考えなかった分を挽回するつもりで集中して考えてみる。
それでいいと思うんです。
そういや、この前、ふと思ったことがあって…。
疲れている時って、人の話を集中して聞けないし、読解力も低下するな。なんて思ったんですよね。
うーーん。なんていうのかな、こう、たとえばですよ…。
仮に誰かに何かを説明しなきゃいけないことがあったとしますよね。
で、その説明の中に
「流水で洗い流す」
ということを伝えなくてはいけないとします。
流水というからには流れている水という意味ですよね。
つまり
「水で洗い流す」
と、言ってはいけないわけですよね。
だって、洗い流すのは「溜め水では無い」のだから。
そんな簡単な意味さえも疲れていると、曖昧な認識や表現になる。しかも自分に都合良く解釈してしまうものです。
まあ、疲れている時に考えることは避けたとしても、誰かが何かを伝えてくることをちゃんと聞くとか聞かないとか、そういう部分とは、その人の人間性の評価をされてしまうポイントですよね。
疲れていたとしても、相手の話を適当に受け取るということは…
つまり、相手が伝えてきた内容と自分の行動を比較した場合、
「自分が今この時点で疲れていることの方が重要」
という「行動としての結果」をだしてしまう。
仮に、その時に、そんなことはない。考えていたし、思ってもいたけど、疲れすぎてうまく伝えられなかった。
という事実があったとしても…。
時既に遅し。
信頼を大小問わず失ってしまうものだと思うのです。
まあ、私の場合は、疲れている時に考え事をしないという自分で取り決めた鉄則のもとに行動しているけど、それ以外にも疲れている時の取り決めがあります。
それは、話をしたい、何かを伝えたい相手が「疲れている時」。この場合も、話し合うことを見送るようにしています。まあ、そんな時に話をしてもラチがあかないし、ましてや、話の矛先が、疲れているだろうその相手の「屁理屈」を“私が「訂正しつづける」こと”に集中してしまう。
そんなものは本当にばからしい。
意味の無いことを自分の感情任せでやっても仕方の無いことだからね。うん。
まあ、なんだとしても、疲れていたからという言葉で逃げる。そういう人間にはならないぞと事あるごとに考えている私です。
疲れている時に目一杯がんばるということは、疲れているという事実が存在している地点で“既に容量オーバーしている状態”なのだから、更なるがんばりは、「かなりのリスクを含んだ上での“注意力の低下”」になるわけですよね。
つまりは、行動だけを客観的に判断すれば、周りから見たら「適当な人」でしかなくなってしまう。
ということは、
「相手を思いやる必要性」を考えて行動した場合
当然、目一杯がんばっては駄目ということになります。
要は、疲れている時に目一杯がんばったりしたら駄目だけど、
ちょっとだけのがんばりが「自分という人間を強制しつづけていく」ことになる。
そういう心遣いって生きていく上で大事。そんな風に思っています。
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