白月光
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白月光

あなたは本当の自分で生きてますか?

精神力を鍛えるとは欲を制することではなく

子供のうちから精神を鍛えなさいとは昔からよく言われたものです。
山に篭って断食と滝に打たれ座禅を組む。
それじゃなければ、剣道やれ空手やれ習得する。
それ以外で他に楽そうなのは…瞑想とか??

どれもこれも続けていく自信がない。
そう思う人の方がきっと多いよね。

あ、私?
上記のどれかをやっているんだろって?

つか無理(笑)


精神ってなんだと思う?
じゃぁ、その前に本能は?
無意識は?
心理学用語を上げたら疑問だらけになってしまうよね。

私の中だけのことでしか答えられないけど、理解しづらかったりしていたらごめんなさい。

まず本能とは欲。
正式には欲の素。

そして、精神とは思考に最も近い感覚かな。

ついでなんで、おさらい。
欲の素(本能)+思考(正式には、欲の素に同意した考えそのもの)=化学反応=欲の意味を完成させる
となります。

つまり、ここで言う欲の意味を完成させるというその完成した欲とは、
醜く
汚く
醜汚に塗れた
そんな人間の歪んだ様を表現しているつもりです。

そして、欲の素が求めているその欲とは、
自然のまま
あるがまま
自然の法則
といった灰汁(あく)の少ない素材のようなもの。
逆に、欲を完成させてしまうと灰汁ばかりで食用にならない素材となります。

では、精神力とは?

欲の素(本能)から発生する純粋な欲を
静かに見守る力。

この部分の心の筋肉を発達させていくのが智。

そして、その智とは脳エリアのとある部位を意識的に活発に動かさないと(有効な手段という意味での「智」を)使えないのです。まあ、それがどこと思う人は過去記事をあらってください。きっと、見ないとわからないと思うので。
私が脳エリアと言うときはあの行動しかないだろうと気がつく方。たぶん当たっています。まあ、ヒントはテーブルゲームということで(笑)

さて、話は戻しますが、その智を活発に稼動してもらうためのゲームをすることで、智を柔軟に使いこなせる畑に脳がなるのです。が、そのゲームを続けつつ、読解力を養うこと。

小説を読むでもいいし

人間観察でもいいし

文章校正でもいいし

なんにせよ読解力を向上させます。これは間違いなく例のテーブルゲームとかんでいるのではないかと、医学的根拠というか、実を言うと調べてもいないのですが(笑)、でも自信があります。
その読解力を養わずして、本当の意味で精神力が鍛えられることは無理なのではと感じています。



この読解力をなんとかかんとか苦労してやり続けて行くことは勿論ですが、
やり続けていくことで、

欲の素(本能)から発生する純粋な欲を静かに見守る力。

この部分が作動します。
というか、筋力がつくので活性化してくるという意味です。



汚さに塗れた醜い欲ではなく、

自然に発生した純粋な欲。

まあ、この純粋な欲とは、七草のように野草を食するのと似ているかもしれないですね。

なんにせよ、
純粋な自分らしさで生きて生きたいのなら、
例のもの(笑)と読解力を努力在るのみですね。



関連過去記事
それは不浄ではなく生きるために与えられたもの


――――――
 追記です
――――――

欲(の素)を静かに静かに見守る理由は、精神内の生態系をより自然な状態に保つことを目的としています。
つまり本来の自分自身という存在そのものへ近づくための行為です。
また、秘めた可能性を存分に発揮する意味とも当然繋がります。
それと、智と連結した「純粋な欲」を育て、人生に張りを持たせる意味にもなります。

本能は、身体構造上、自然なものであり、
人間は生きるために本能という欲(の素)を与えられている。

本能とは自然の法則に従っているだけで汚いものではないのです。

醜く汚くしているのは、
人間が欲に溺れた瞬間のみ。
この欲に溺れるをたとえていうなれば、
囚われる気持ちに囚われる。そんなところですね。
ちなみに溺れていない状態、つまり欲の素に同意していないとしたら、
囚われる気持ちに囚われない。となるでしょう。

だけれども、それを好き好んで溺れるのであれば、
私は構わないと思う。
突き放した意味での構わないではない。
それは趣向や嗜好と酷似した人生観なのだと思う。


欲(の素)という名の本能に振り回されそうになった時、
どれが本心か見極める分析とも似た読解力。

それが自分を自分でいさせてくれる唯一の精神なのだと
私は思います。

また、それを人間性とも言い表すこともあるでしょう。

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商人のように…

どうすれば幸せになれるのか。

どうすればこの不幸から離脱することができるのか。

どうすれば……。

自分の人生に疑問を持ち取り組む切欠は、どうすればという言葉かもしれない。
不運のイメージは、個人々の感覚で異なるものだと思う。

例えば、
交通事故にばかり合う。
身内が毎年たて続けに誰かしら亡くなる。
上手くいきそうになると途端に駄目になる。

など、様々な不運のイメージ。

しかし、それらはもともとの自分の運の量(=強さ)がベースとなり、生きている過程(思い考え、そして行動する事により)を積み重ねていくことで、もともとの運よりもよりよくしたり、更に酷い状態にしてしまったりする。

生きていく上で何もないならそれに越したことは無い。誰だってそうだよね。
じゃぁ、同じ状況であっても、事を起こす人間とスルーする人間といるでしょ。
その場合、闇雲に意味も無く事を起こすのを無謀という。
そして、ほんの僅かな物事だったとしてもより良くするために事を起こすことを運を変えるという。

この後者の運を変えるということだけど、当然、持たされた自分の運の量(強さ)なんてのは同じなんだよ。でもね、その運を少しでも「良い」というエリアへ量(強さ)を同じままにして風向きを変えることが出来る。

つまり、カメラの「三脚の位置」を変えられない「運の量(強さ)」だとするよね。

その状況でカメラのレンズに映っているのが「あまり運が良くない(風向き)」という風景だったとする。

で、

三脚はそのままにして、「ほんの僅かな物事だったとしてもより良くするために事を起こす」という行為が「カメラのレンズの(風向き)向き」だけを変えることになる。その結果、「運が割りと良い」という風景を映すことができるよ。ということ。

まあ、早い話が、やろうと思ったことはひとつずつ小まめに片付けていくだけで、運は協力的になってくれますというお話です。
運が悪そうな顔しているのに、細々とやるべきことをゆっくりでも片付けている人や、
運が良さそうな顔をして、細々とやるべきことをゆっくりでも片付けている人。そういう人って、なぜか調子良く運が回転しているようにみえない?

まあ、そりゃ、金はあるけど他はね…。とか、そんなにパーフェクトな人は、そうそういないだろうけどさ(笑)

なんていうのかな…。
運が悪いから何かが起こるんじゃなくて、
運を決定しているのは、
何かがあった時の行動で決定してるんだよね。
または、何かが起こりうると想定し行動したこととか。

そういう動きを地道にやっている腰の軽い人は、身軽だからね。
身軽だと運が沈みにくいんだよ。
つまり旅上手は余計なものも持ってないんだ。
旅上手以外で例えるなら、商人みたいに細々と動いてフットワークも軽い。とか。

結局さ、人は考えることを諦めたり、夢を諦めたりすると、
運命の道から希望の光が消えてしまう。

だからこそ、僅かな日銭と僅かな楽しみを持ち、あくせくと働くことで運命が変わっていくものだと…
私はそんな風に感じています。

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神聖の意味を学ぼう

霊能者というと、神聖でなくてはいけない。
そんなイメージを多くの人が持っているのではないかと思う。

神聖とは穢れが無く清らかというようなことでしょ。

そういうイメージを突き詰めていくと、宗教的なイメージに酷似した像に到達する。
宗教的とは、それぞれの宗教で崇めている像。

それと、霊能者と関連している事柄で言えば、スピリチュアル。

こういったスピリチュアルの人間も神聖というイメージをもたれやすい。
2012年アセンションの影響で周りの期待と羨望を一心に集めている今、特に、リアルなイメージをもたれていることだろう。

また、こういう事柄を多くの人間として捉え考えた場合、邪の思いは道徳に反する。みたいな、そんなイメージが生きている気がする。

さて、ここまで書いて思うのだけど…。
果たして神聖な(生きている)人間などいるのだろうか。

まあ、神聖に見える人はいると思う。
穢れの無いように見える人もいる。
穢れらしき行動も意見も見当たらないし、本人の自覚も周りと同等に感じている者もいる。


それらの様は正常なのだろうか…。


私は人間とは穢れ多き生き物だと思うのだ。
だからといって、じゃぁ、汚いままで生きていればいいんだとか、そういう飛躍しすぎた意味ではなくて。
穢れは肉体に依存した遺伝のようなものなのだと感じている。
自然の法則にのっとり生を成し、あるがままの穢れをどうして浄化できようと思うのだ。

根源の穢れから生み出されたヘドロのように蓄積した穢れを浄化したいとまではわかる。
けれども、肉体に依存し遺伝となんら変わらぬ原型ともいえる「穢れ」を浄化するということは、
自分という存在そのものの否定にしかならない。
確かに人の好感度を考えれば、欲に塗れた人間よりも、神聖に見える霊能者やヒーラーの方が良いのかもしれない。
だけど、神聖化するために、自分の存在を否定してまで自虐的になってはいけないと思う。

必死でその位置へ辿り着こうとしているのかもしれないけど、なにかが違うと思うのだ。

幼い子供が、じいちゃんやばあちゃんに「痛かったね」と言われ心の温度が上がり涙がこぼれるように、最も身近に息づく人間が、本当の意味で神聖というように思える。

きっと、本当の神聖とは、
神聖化することとは無縁であり、
ましてや気にもしていない人間のみが
気がつけば辿り着かされる聖地なのではないかと思う。

神聖に近づこうという欲が神聖から遠ざける。
それは、良い人でいたいと考える人間が
良い人から遠ざけられるのと似ていると思うのだ。

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心の温度を温めてくれるもの

とある仲良しさんから聞いたお話。

五月病に続いて六月病があるんだって!!

それを聞いた私は電話口で思わず噴出してしまった。大笑いだし。
六月にそんな名前がついてしまったのね…。

まあ、その人とお話をしていると終始に笑いが飛ぶ。

笑うことは良いことだよ。うん。


そういや夜中のメールでも笑ったな。
その時の笑いのお相手は、妹みたいにかわいい存在の子。

クマのぬいぐるみに「ハルカ」って名前を(本気で)つけるのだそうで(笑)
ちなみにクマは私(ハルカ)そのものなのだと言うし。
大笑いしながらも憎めないなと。なんかね、彼女の真心に触れたみたいで優しい気持ちになったりしてさ…。

真心を貰った瞬間って、心を洗われることがある。

けど、やっぱり。
それでもね、

そうかい、私はクマかい。とか思ったけど(笑)


なんていうか、笑うことは当たり前じゃないけど、大事だよね。

こう、余りにも辛いと腹の底から笑えなくなるでしょ。

最近、ちっとも笑ってないな…。なんて、自分を振り返ると虚しい気持ちが込み上げてきたりしてさ。やっぱ、そういうのはさみしい気分になるよね。

だから、せめて、心の緊張を取る。そんな自分なりのアイテムがあれば心強いよねとか思ってしまいます。


まあ、
これをしたら落ち着く。

そんな感覚は人により様々だし、
だからこそ自分だけのアイテムが見つかるといいよねと思うのだ。

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人間性の一部

とある人間が文章として記していた言葉。

ノイローゼは言いたいことを我慢するからノイローゼになるのだ。

そんなことが書いてあった。言いたいことを言っていれば、確かにノイローゼにはならないだろう。
しかし、単に言いたいことのみを表現していた場合はどうだろうか。

その表現する言葉にもよるけど、確実に周りからあぶれていく。ほかされて始めて自分が危険を冒していたことを知り、結果として積極的な言動を慎んでしまうことも在る。

言いたいことを言わないと、怒りや悲しみ楽しい気持ちなど、人の持てる様々な感情が脳に伝達されなくなる。まあ、正式には伝達はされているのだろうけど、自覚が無いのだ。
その自覚の無い中、混乱した思いたちは自分が作った蓋の下へ追いやられていく。

すると、そういう思いたちは蓋の下で暴走する。

蓋は感情を認識も認知もしなくて済むような役割を果たしてくれるから、だから、追いやられた思いたちにとったら好都合。

だけど、蓋から蒸気が上がる。

苦しいよ。

いやだよ。

助けて。

でも蓋が言葉という言葉を遮るから、声は聞こえない。
その代わりに、その言葉を思った時と同様な不快感が自分の感情を支配する。

それが情緒不安定の根源だったりもする。
別にノイローゼになっていなくても、環境の影響なんかでも簡単に心のリズムが乱れるから情緒不安になる人間は結構いると思うよ。

じゃぁ、蓋を取ったらいい。

じゃぁ、言いたいことを言いなさい。

逃げていちゃだめでしょ。がんばって。

なんて、そんな台詞は嘘ばっかりの言葉。
蓋を取れるならとっくに取っているし、
言いたいことを言えるなら既に言っている。
逃げているんじゃないし、前からがんばっているよ。

そんな心の声が届いてきそう…。

私は思う。
辛いのに辛くないなんて言わなくていいと思うし、
楽しくないのに楽しい顔を作らなくてもいいと思う。

だって、辛いのは辛いんだし。楽しくないのは楽しくないのだから。

それでもね、一握りの思いやりを忘れなきゃそれでいいと思うのです。

なんというか、言いたいことを言えない人は大抵が膜のように何かが心の中に張り付いている。
その膜がなんなのかが分からなかったとしても、存在を意識しているのなら構わない。

けど、無自覚だった場合、時として言葉という暴力が生み出されることが在る。
親がしつけと言いつつ子供を怒り任せに殴る。
暴力からは何も生まれやしない。せいぜい敗北くらいなもの。
そんな暴力と同等の言葉。
暴力という名の言葉の武器。


それだとしても、
僅かな配慮を続けること。
それが人間性なのだと思う。

その境地を受け止めようとする者は、いずれ、荒れの無い海中に辿り着くだろう。
また、嵐の無い上空に行くだろう。

例え現実という名の何かが荒れていたとしても、その中で生き抜く自分がいるだろう。

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ただ何となく思ったままに…

たまーに、広島に行きたいな…。なんて最近おもうようになった。
広島は、宮島に行きたい。

高校の時に修学旅行で宮島へは行ったけど、なんというか、今の私が宮島へ行き精神の穢れを清めたい気分なのだ。まあ、その感覚は、神社や寺院等を訪れ神聖な何かにあやかりたいと思う、そんな感覚に近いのかもしれない。

何のために人間は生きているのか。

以前、そんなことを一時期考えていたことがあった。
でも、結局さ、人は何のために生きているのかという疑問を経て、自分は何者なのかという新たな疑問を生む。

プログラムが組み込まれたかのように、そういった疑念を持つ時期があるらしい。

私は何時だったか、そういう拘りに拘ることをやめた。
そして、人は誰もがみな自由なのだと、精神の自由を理解した。

だけれども、それは私が辿り着いた今在る人生の場所でしか無いわけで。

つまり、精神の自由が人間に与えられたものだとしたら、こんな境遇だった人は?
とか、色々な疑念が浮かび上がるだろうと思う。

それでも、私は言う。

だとしても、精神の自由を奪うことは誰にも出来ない。
境遇は強制的な状態になっていたとしても、精神の自由は誰にでも在るよ。

その境遇を恨むのも自由。

嘆くのも自由。

そんな風に思う。

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「本当の意味で過去を振り返る」ということについて考えてみる

友達や仲間。ばかをばかとして素直に笑い、時には共に涙を見せる。
だが、時には身近な立場から怒りの言葉を送る。
こういった事柄が回転して初めて関係が続く。

けれども、世の中にはそういった事柄を加味しても表面だけの関係ができあがることもある。

しかし、その関係が水面下で起こっている膿のような出来事を無視し関係を続けることもできるだろう。

けど、その膿が破裂することもある。

破裂した瞬間は互いが一瞬(もしくはその後のとても長い期間)現実を把握するには困難なことの方が多い。

ましてや膿の量が多ければ多いほど、膿という厄介な存在により思慮や配慮という人がいとも簡単に崩壊してしまう部分を膿が直撃してくる。

直撃されると当然、通常の実力以下のレベルで思慮や配慮を欠くことになる。



その時を振り返り、そんなこともあったと人は言う。



その時を振り返り、ああ言うしかなかったと人は言う。



その時を振り返り、若気の至りだと人は言う。



でも本当にそうなのだろうか。

その振り返る事実は過去の何を見て何を振り返っているのだろう。

それまで生きてきたことが不完全なりの完璧ということを理解しているはずなのに、それでも、そうやって浸る瞬間の多くの人は――、


振り返ることもせず前を見据えたまま哀愁に浸っている。


また、現実的な物事の整理はどこともなく消えてしまい、
ただあるのは手の平ですくった都合良く構成され書き換えられた思念なのかもしれない。

私自身、未だそういった意味で、人間の持つ自愛の深く柔らかな部分にまで到達していないのだろう。

だからこそ、こういった観点から物が言えるのかもしれない。


しかし、そんな私でも思うのだ。


現実が見えていない愚かさというものは
年を重ねたから身につくものではない。

ましてや自分を本気で正す意思が伴わなければ
「本当の意味で過去を振り返る」ことなど出来ないと思う。

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鬼魂

前回の記事で上げたRPGのオンラインですが、即効でアップしてしまいました。

私は滅多に顔を出さないのだけど、ここのサイトが好き。
このサイトは「鬼魂(おにだましい。通称おにたま)」という「Mゲーム」や「@ゲーム」のサイトから、会員登録をすることで、ダウンロードして遊べます。
まあ、基本は無料で出来ますよ。


で、私のキャラですが……

(画像をクリックで拡大)
5bfca720.jpg
この威張っている尾梶さまがわたし。

ほいで

はむたお―がだんなさん。
とっとこがペット。


a9d37b84.jpg
で、(右側の画像)このソフトクリームは
だんなさんに買ってもらったのだ。
ついでに狼のペットも買ってもらった。
あと、頭に乗っているうさぎさんも買ってもらった。うふふ。

いいや…

正確には

ぜぇーんぶ



…タカリました。




d289dc51.jpg
ほいでね、(左側の画像)

この背負っているパンダも買ってもらった(つかタカリ…)。

レベルが20になったら、パンダのペットをはむたおーに、いや、だんなさんに買ってもらう。うふふ。


いつも居るわけじゃないから、見かけないかもだけど…
もしも私を見かけたら、ぜひ、声を掛けてくださいね(笑)

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福島の母 占い軒龍卑(haruka)
年齢:
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誕生日:
1969/11/01
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
占い・読書(ほぼ仕事の本)・ガーデニング・その他諸々
軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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