霊能者というと、神聖でなくてはいけない。
そんなイメージを多くの人が持っているのではないかと思う。
神聖とは穢れが無く清らかというようなことでしょ。
そういうイメージを突き詰めていくと、宗教的なイメージに酷似した像に到達する。
宗教的とは、それぞれの宗教で崇めている像。
それと、霊能者と関連している事柄で言えば、スピリチュアル。
こういったスピリチュアルの人間も神聖というイメージをもたれやすい。
2012年アセンションの影響で周りの期待と羨望を一心に集めている今、特に、リアルなイメージをもたれていることだろう。
また、こういう事柄を多くの人間として捉え考えた場合、邪の思いは道徳に反する。みたいな、そんなイメージが生きている気がする。
さて、ここまで書いて思うのだけど…。
果たして神聖な(生きている)人間などいるのだろうか。
まあ、神聖に見える人はいると思う。
穢れの無いように見える人もいる。
穢れらしき行動も意見も見当たらないし、本人の自覚も周りと同等に感じている者もいる。
それらの様は正常なのだろうか…。
私は人間とは穢れ多き生き物だと思うのだ。
だからといって、じゃぁ、汚いままで生きていればいいんだとか、そういう飛躍しすぎた意味ではなくて。
穢れは肉体に依存した遺伝のようなものなのだと感じている。
自然の法則にのっとり生を成し、あるがままの穢れをどうして浄化できようと思うのだ。
根源の穢れから生み出されたヘドロのように蓄積した穢れを浄化したいとまではわかる。
けれども、肉体に依存し遺伝となんら変わらぬ原型ともいえる「穢れ」を浄化するということは、
自分という存在そのものの否定にしかならない。
確かに人の好感度を考えれば、欲に塗れた人間よりも、神聖に見える霊能者やヒーラーの方が良いのかもしれない。
だけど、神聖化するために、自分の存在を否定してまで自虐的になってはいけないと思う。
必死でその位置へ辿り着こうとしているのかもしれないけど、なにかが違うと思うのだ。
幼い子供が、じいちゃんやばあちゃんに「痛かったね」と言われ心の温度が上がり涙がこぼれるように、最も身近に息づく人間が、本当の意味で神聖というように思える。
きっと、本当の神聖とは、
神聖化することとは無縁であり、
ましてや気にもしていない人間のみが
気がつけば辿り着かされる聖地なのではないかと思う。
神聖に近づこうという欲が神聖から遠ざける。
それは、良い人でいたいと考える人間が
良い人から遠ざけられるのと似ていると思うのだ。
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