気持ちのなくなった人の、その状態。それは生きる屍(しかばね)というよりも、人生を舞台にした俳優といったところだろうか。
気持ちのなくなった者がする会話、気持ちのなくなった者がする約束、気持ちのなくなった者がする恋愛。
全てが砂を噛んだようにざらついた心境となる。
美味しそうに見える、泥団子。
泥団子で食欲は満たされない。
また
砂漠に水滴を落とし
その水滴をすくって飲んでくれと誰かに言っているような……
意味なき行動。意味なき状況。意味なきポーズ。
人の気持ちの在り方について最近は考えることが多い。
気持ちが人生の色をつくっていると、そう感じる。
ただ、その気持ちが本当だったとしても
表現方法が分からず
本当のことが伝わらないこともある。
そして、言葉や気持ちを伝えるだけなら
自分の気持ちをただただ言えばいい。
だけれども
それは伝えることであり、伝わることとは違う。
伝えるだけでは、ただの一方通行でしかないし、
また
伝えた気持ちが本物だったとしても
伝わらなかったら
話しをした、行動をした、その意味も価値も失くしてしまうもの。
自分以外の誰かに言葉や気持ちが伝わるには
自分の中に存在している言葉や気持ちを一旦は変換しないといけない。
伝わるための言葉に、変換しなくてはいけない。
それもその相手に伝わるための言葉という、特別な言葉に変換しなくてはいけない。
もし仮に、伝わって欲しい事柄が伝わったように思えたとしても
そこでまた、新たな問題が浮上する。
それは、相手があなたと同じものを見て生きているわけじゃないから
伝わったように見えるそれら全てのことが
あなたが感じていた感覚と同じように受け取ることはできないということ。
結局伝わりきれないというソレは、自然の摂理のようなもの。自然なこと。
そして
その受け取ることができなかった言葉たちは
ふたりの中で大なり小なり、溝の存在をつくるということ。
これも自然なこと。
だからこそ、良く分かっている間柄だとしても
他愛も無い話しをする事実が大切になってくる。
他愛も無い話しが
どうでも良い話しに思えたとしても……
相手を理解しようと思いながらする、他愛も無い話しは、相手を理解できる割合が大きく違うもの。
すなわち、理解しようと思う、その気持ちが人生を変えていくもの。
しかし、あなたの見えている景色は変わらないかもしれない。
それだとしても、空気は変わる。
そこには
自分が自分として生きるための空気が存在しているはず。
人生の在りかたとは
些細な事柄から変わるものだと、心から感じています。
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