大きく立ちはだかる壁を一気に全力疾走で超えました。
今回は家族の各々が手を取り合い、壁のようにそびえ立つ山を降りきるまで、誰一人離れずに猛スピードで駆け降りなければいけなかった。だから誰かひとりでも余所見をしたりもう走れないと諦め弱音を吐いてしまえば、その地点で崩壊してしまったことでしょう。
どの家庭にも試練となる巨大な壁が、生きていれば突如現れることがあります。例えその壁の出現を予測していたとしても実際に現れると尻込みをしてしまう。
人間はそれらを恐怖心として捉えるのだけれど、泣きながら恐怖の味をお腹一杯舐めてしまうことで、ようやく恐怖の真のシルエットが出現します。
恐怖の味を舐め尽くすからこそ、どのように恐ろしく、何をしてしまえば食われてしまうのか、そして自己は何をすべきかを悟ります。
故に恐怖を妄想的に膨らますのではなく、恐怖の(現実的な)真のシルエットを捕らえるからこそ、立ち向かう勇気が現れるものなのだと思います。
そして今自分と自分の家族は、切れ目の不明な樹海を目の前にし立っています。もう間もなく、あと数歩で、その樹海に入るでしょう。
方向の定まらぬ樹海の中は、きっと視力など何の役にも立たない。各自の耳、鼻、肌、それらを用いて野生動物さながらの研ぎ澄まされた能力を出し切り進んでいくしかない。今現在存在している真の恐怖を、しっかりと各々が受け止めているから、泣いたり喚いたり、無駄に恐怖におののくようなことは無いけれど、全ての意識を線のように連ね、溶け合い、交じり合い、一筋の線を作り続けていくしか無いのだと思う。
物音と、自然の無音が同時に伝わっているのを肌で感じています。無音は音の無い吸い込まれそうな静粛を保ち、私の中へ飛び込んできます。自然の摂理となった循環を受け入れ、自己が粒子となり解け合わせています。故に天の意志が示す光を迷うことなく辿り受け止め、いずれ樹海を抜けるでしょう。
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其々の目に映る風景は違えど
其々の思いの果てが同じであれば
今という永遠にも思える耐え忍ぶ心が連打されようとも
今という 恐ろしく長い時を刻んだとしても
気が付けば 安堵という心の聖地に辿り着くことだろう
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