涙はどうして流れるのだろう。
体から滲み出る涙は、魂の声。
自分が悲しいときも嬉しい時も驚いた時も、涙は出る。
女の人はよく泣くからストレスが溜まりづらい。と、どこかで耳にしたことがある。私も例外ではなく、やはり何かの拍子に涙が流れる。別に感情が高ぶっていなくても、泣くことがあって、どうしてこのタイミングで涙が流れてくるの?と、自分でも、変なの。と、感じることもある。
私が日々感じている涙とは、魂からのメッセージではないのか。と、考えている。心のわだかまりや心の矛盾を自分が自分へ訴えている、また、伝える手段。なんとなく、涙の役割とはそんな気がする。
ところで、涙を流さない人も居たりする。こういうのって、単に泣き虫か泣き虫じゃないかということなのだと思うし、それまでの環境も関連していたりもすると思っている。
それだとしても、涙が出ないというのは人間らしくない。というイメージも多くの人間が持つ思いなのかもしれない。
さて、最近、よく感じることがあるのだけど、人は感情への刺激が無いと脳が麻痺してくるのじゃないか。と、思っているんだよ。よく、楽しいのか嬉しいのか悲しいのか、自分で自分の気持ちが分からない。そういう相談をされることがある。ま、そういう悩みを抱く人間が多いのかもしれないね。
でね、これって、例えば感動するような何か(映画とか、その他色々ね)を体験したとしても、そういう状態の時は感情が受け付けなくて、感じている通りに涙がでなかったりもする。つまり、悲しくもないのにボロボロと涙が零れてくるという意味だよ。だからといって、これでもか、これでもか、と、たくさんの涙を誘う状況を取り入れたところで同じ結果になってしまうはず。
この状況になるまでほって置かれた自分がかわいそうだ。
まずは、そうなる以前に適度に気分転換でストレスを発散できれば、何よりなんだろうけど…。人は機械じゃないから、一定量のストレスが溜まったから発散しましょう。とは、いくわけがない。大抵は、落ちてしまってから、ああ、やってしまった。という感じなんじゃないかな。
私は思うのだけど、そういった状況になったら、規則正しいまともな生活をするしかないと思うのね。けれども、そこまで落ちていないのなら、感じる自分を、感じている自分を、気づいてあげる作業が必要なんじゃないかと思うんだよ。
例えばさ、漫画なんかでもいいし、ドラマとかでもいいんだけど、
「こんなこと言っているけど、本当は、こうしたいんじゃないかな…」
なんて、感じる時が無い?!
その場面を把握しつつも、もどかしくて、
「どうしてここで言わないの~」
とかさ。そういう感覚って誰しもがあると思うの。
でね、それを自分の心の中で展開していく。この、自分の中で展開していくことこそが、「感じている、感じた、そういう自分に気づいてあげる作業」になる。
自分の中でのドラマのような、或いは、解説者のような、または、評論家でもいい。そういう役割を自分の中に僅かな時間でもいいから持つようにする。
そうやって、地道なことを続けていくことで、何れ、自分の気持ちに深みが出てくる。というか、もともとの深みのある自分を把握できると言った方が正しいかな。
簡単に言ってしまえば、そういった作業の習慣化は、自己を客観視していくという意味にも通じていく。何か動揺するようなことが起こったとしても、案外冷静に取り組めたりもするし。また、冷静すぎた人は、感情の感覚が戻ってくるから人間味が増すよね。もともとの冷静さが自分の人間性を良い意味で成長させてくれると思うよ。
感じることは誰でもできる。ただ、こんな風に感じたという認識に欠けていたりする。
それだとしても、人間の体は感じるようにつくられているものだよ。
だからこそ、感じることを本来の状態に戻してあげること。
それは、魂にとって、とても嬉しいこと。そして、生命エネルギーの強化にもイコールになる。
自己を愛し、労わること。把握という、他愛も無いことで、できてしまったりする。
自分が感じたことを把握するということは、
自分が「今よりも少しだけ楽になる」ための自分へのプレゼントだよ。
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