本当のことを知るというのは、脳にとっての何よりもの栄養ではないか。これは、ずっと以前から感じていたこと。
本当のこととは自分が気になったことなら、何でも良いのだと思う。
自分が感じる、或いは自分が考える、ある一定の答えがあったとする。けれども、それらは「自分の中での常識」だという場合がある。自分で出した答えをこの世の本当と比較したら全く異なるという結論が出てもおかしくはない。
例えば、哲学や思想、そういったものがあるでしょ。確かにこれらは的をついているし、全てではないのかもしれないが「正しい」ことを言っていたりする。
けれどもね、「正しい」ということと「本当のこと」は全く違う。
学生時代に感じた校則への反発感。そういう気持ちって少なからず誰もが感じるんじゃないかなと思うの。ま、校則に限らず、担任の人格へ様々な反感というのもありだろうけど。でさ、学生へ強制される校則。その校則に従い先生は指導する。この指導している状態は「正しい」と言える。校則に従っての行為だから、そうなるよね。
じゃぁ、それらの行為を世の本当と言えるのか、となると、そうは言えないこともあるでしょ。
世の本当とは、そんなような意味。だけども、人間とは、人権とは、となるとそれは哲学や思想というジャンルだったりするはず。哲学や思想とは「自分がこうだと思う頂点」を示していくような考えということでしょ。やっぱり、そういうのと本当のこととは違っているからね。
今日は、脳のお話に触れる機会があって、折角だから書き残しておこうと思い記事にしました。
脳はこの「世の中の本当のこと」を理解していないと「ある特定の脳エリアの機能不全」を引き起こすようです。この状態を心身症です。とは、言いません。この状態で生きている人間が、人口の大半を占めているはずです。
本当のことを知る努力というものを怠っていくと、老後、くそばばと、くそじじになります。つまりかわいくない年寄りという意味です。若くても、脳機能の不全は現れます。10代の人間にも存在している症状です。
だけれども、最近になって気がついたのですが、こういった脳の機能不全を持つ人間を凡人というのではないか。とも感じています。本当のことを理解できるのは、天才か、天才と並ぶまでの努力をした秀才です。ということは、大まかに、それらの残りは「凡人」なのだ。と、思います。だとしても、秀才とはもともとが凡人であると言える。
つまり努力次第(←本当のことを知るという意味での努力。及び、脳の機能不全の改善という意味)では、味のある老後を謳歌できるということ。
ま、老後の人生を謳歌したいのなら、精神の鍛錬ともいえる「この世の本当」を探し続けていくことですね。
そのうち機会があれば、そういった脳機能のお話や精神力についても書こうと思います。もしかしたら、
精神の探求~Search for spirit の方に書くかもしれないですが、その時は、このブログ上で告知しておきます。
そして、脳とは自分が思うよりも賢い機能だということ。それだけを最後に書いておきます。
ほいで、脳の機能不全が原因で、くそばばにはなりたくないです、私。はい。
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