前回の記事のままだと混乱を招くかも…。と、思ったので、ちょっとばかり補足のつもりで書き足しておきます。
まず、あの記事を読みきった後に思うであろうと予測するのが、「自分だけがよければ良いのか」という、ある種、エゴイズムな考えなのではないか。と、人によっては感じるのではないでしょうか。
それはそれで、ある一定の条件を揃えてしまえば、真実ともいえる。けれども、真実とは本当のこととは違う。
ここで言う本当のこととは少なくとも私の中での本当のこと。
じゃぁ、本題。
例えば、誰かのためにこれをしたい。という気持ちがある。その気持ちを噛み砕いていったら、またしても「誰かのため」という考えが残るのだろうか。
じゃぁ、仮に残ったとしよう。その残った考えは、もうそれ以上、噛み砕くことができないのだろうか。
ひょっとしたら、案外、とっても簡単なことを見落としていたりして気がついていないのではないか。ということも考えられる。
なぜなら、人間(その他の生物もかもしれないが)の脳は、様々な物事の結果をフォルダのような状態で分類されている。分類されたそれを必要な時に引き出し、新たな情報と照らし合わせ、どのフォルダへ分類するのかを決定する。
決定を下すことと、決定までの過程は、自分が人生の中で培ってきた「思考癖」により選択されている。
つまり、自分が今までどれだけ有効的な思考を取り入れてきたかという事実に基づき、脳が動いているということだよね。
で、話を戻すけど。
「誰かのために」
ではなくて、ひょっとしたら、
その人が悲しむのを見ている自分が悲しい。
ということもありでしょ。
自分がどれだけその人を欲する想いがあるのかどうか。その自分の中の事実を把握したとしたら、誰かのためにというのは存在しなくて、自分がそうしたいから。と、なるよね。
突き詰めていくと正しいとか正しくないとか、そういう様々な、思想や哲学の話になってしまうかもしれない。
けれどもね、思想も哲学も本当のことなのかとなるとそれは違うわけで。
本当のことっていうのは、思想とか哲学とかとは違う。もっと別次元にあるものなんじゃないかな。と、思うの。
ま、だとしても、この世の愛の全てを見て、全てを知る。そんなことは無理に決まっている。出来るとしたら、この世の同じ人間が感じる「感情の細やかなひとつひとつ」を自己の中に見出し、突き詰めていくしかないのでは。と、思う。
何かを突き詰めていくということは、もしかしたら、たくさんを追ったとしても何れひとつに取り組むことではないのかな。なんて思うのですよ。
そして、補足の記事に再度補足するとしたら、自分ができうる事柄をセーブして、より完璧にしていく。ということ。
10あるものを10行なうのではなく、例えば、10あるのなら6だけを真剣に行なう。すると、精神の余裕と肉体の余裕が現れ、無茶をした時に発生する無意味なストレスは自動的に消滅する。しかも、10の内の6だからこそ、実践した行為は完璧になっていく。
そんなふうに、先を捉えていくと、自分の能力を超えた意味の無い行為が目立つ。けれども、意味の無いものなんてこの世に存在はしていないと思うのだけどね。
つまり、やりたいことと、できることは違うということ。
最後に、補足が更なる混乱を生み出したかもしれませんが、その時はごめんなさい。
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