依存とは「こうあるべき」という自分なりの意図があった上で「王の椅子」が脳の(思考癖の)プログラムにより自動的に準備してある。
王の椅子に座れるものは、「こうあるべき」という条件を満たしたものだけ。
依存症やウツの症状を持つ人や、単に依存気味の人は、終始王の椅子と連結した思考回路で生活をしているのではないだろうか。
例えば、近所の奥さんと朝のごあいさつをする。いつもの奥さんはニコニコ笑いながら豪快に「あらー、おはようございます」と全身を揺らしながら答えてくる……「はず」なのだ。なのに、目の奥が笑っていないと、アレ?おかしいとなる。その時、無意識内で、奥さんは、王の椅子に座るべく条件を失効する。そして、無意識内で、更なる椅子を用意する。それは、家来の椅子。家来の椅子は柔軟性があり、「それならば、こうなら、こうあるべきで通るわよね」と、決断し家来の椅子を用意する。
そして、奥さんへ言う「なんだかお疲れですか…」と気遣いの言葉を発するのだ。
奥さんが自分を嫌っているのではなく、「単に疲れているのなら其れでも良い」という(家来に格落ちしたとしても、自己満足に変わりは無い)それでも椅子は椅子なのだ。
そこで、奥さんが同意とも取れる答えや行為をすれば、椅子は埋まり、自分は満足する。
だけれども、同意ではないことをされた場合、「奥さんが私に笑顔で挨拶しないわけが無い」という疑念が次々と家来の椅子を用意してしまう。
家来の椅子に奥さんが梃子でも座らなくなった場合は、別の王の椅子を準備する。
その準備は、気持ちの切り替えである。
そして、自分は「奥さんは旦那さんとうまくいっていないんだ。そうそう、子どもが問題を起こしているんだわ…なんてかわいそうなのかしら。それに比べたら、私はマシね」
と、思い込む。切り替えというよりも、どっちかといえば思い込みの連鎖であると思える。
そして、王の上に鎮座する大魔王の椅子に座るべく条件が満たされ、「できる人であるべき自分(←ただの例えです)」が完成し、やがて満足する。要は、王と家来の椅子の其々は、「自分以外の何物かが座る椅子」、そして、それらが満たされると、最終的に「大魔王の椅子へ自分が座る」ということ。この大魔王の椅子に自分が鎮座するまでは、エンドレスで「王or家来」といった回路をぐるぐる回っているだけなのだ。
こういった連鎖は、殺気の原理だと考えている。つまり、依存の瞬間とは殺気の連打であると、そう思うのだ。
ま、そのうち、機会をみて、詳しく書こうと思います。では今日はここまで。
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