物事の中心とは、常に不動のもの。そして、良いとか、悪いとか、そういった判断は本当のことの「ある側面」を示している。故に、それらを思想や固定観念、或いは、思っていること(個人の考え)。といった、そんなジャンルに分けられるものなのだと思う。そういったジャンルは物事の中心を球体とした場合、球体に依存する無数に刺さった針なのではないだろうか。
本当のことというのは、誰かが素晴らしい思想を述べたとしても、何も変わらない。この世の人間が、その本当のことを誰一人として知らなくとも、本当のこととは唯一ひとつだけなのだ。
例えば、先日も記事としてあげたけれど、精神科医が何々という病名を患者に対し判断したとする。その判断は「正しい」のだ。だけれども、正しいというだけで、本当のことではない。
仮に、ウツになってしまった人間が家族に居たとする。で、自分がウツだったとする。病院へ行ってウツだと言われたのだからウツなのだ。
じゃぁ、自分以外の家族がウツを勉強した。熱心に取り組んだ。その末に、ウツと言う症状を理解した。
そこで、少し考えてみる。これらの全体を遠くから眺めてみたとする。
ウツという症状は、学んだ知識の中に該当している。だけれども、普段の生活はどうだろうか…。
症状というものから切り離して物事を考えてみる。
すると、どうだろう。行動や行為、或いは言動、そんなものの繰り返しというだけだよね。
それらの行動などが集結してウツと言われているだけだ。
じゃぁ、この行動を見ている家族の中に、こんなことを考えている者はいないだろうか。
ウツの家族に対し、「この、(ウツの家族以外の家族が、或いは、ウツになってしまった家族が)何々という行為が(ウツの家族に対し)悪循環を招いている原因ではないのか」と…。
私は、それが本当のことだと思うのだ。
そして、不動のことだと思えるのだ。
確かに、ウツという症状は、ウツになった本人の感情の捉え方の問題に起因している。それに、家族にもウツがいる場合も多い。ウツは、ウツになった人間の「ウツになった切欠がどんなものだったのかを理解できれば治っていく」と、言われている。
でもね、それって、死ぬまで分からないかもしれない。だからこそ、医者の提示するお薬が必要だ。
だとしても、今の連続で繋がっている、その本当のことが理解できれば、循環していくものだよ。当然、根源に対しアプローチしていくのだから、的を得ていれば改善もしていくはず。
ところで最近の私は、本当のこととは、なんなのか。そんなポイントで様々な物事を捉える機会が多くなっている。そういった観点で物事を捉えるというのは、筋肉と同じで、鍛えていくものじゃないのかなとも思うのだ。
やはり、精神を鍛えるという言葉があるように、心にも鍛えるべく筋肉が存在しているのだと、そう思うよ。
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