前回の記事で書いた無意識のお話の続きね。
まず、無意識とひとことで言ってしまうのは簡単。
でも――、
本音とは
無意識が意識に上り、
「内なる内へ向ける自分の意思」を知るという行為を
「認識(判断)」ではなく、
「認知(認める)」することで
始めて成立するもの。
けれども、人は、それら無意識を認識さえもしないような「心と、思考の癖」が習慣化されやすい。
つまり、
結局、この部分は、こんな風にしていくものだから、こうやっていくのは仕方ない。
という、正しくは無くても、妥協はあっても、現実に対し「まとも」な答えを出したとするよね。
だけれども、その答えが、どれほどまともなことだったとしても、
その答えを導くために通過する「自分の気持ち」を無視している場合がある。
その無視してしまった本音が生かされないことで、苦しみや悲しみ、また、嘆きとして、自分へ帰ってきているよね。
という、そのひと言を今日は言いたかっただけなんだよね。
まあ、言葉や文章で表現してしまえば、ふうーん。そうなの。程度のお話にも聞こえる。
けど…。これって、結構、自覚せずに生きている人って多いんだよね。
このままでいいんだという人は、それはそれで構わないと思うの。けれども、自分を、今を、未来を、変えていきたいと思っている人にとって、それら無意識という名の「本音」を「認知」できないということは、かなり勿体無いことをしていると考えられる。うん。確かに勿体無い以外の何者でもないよ。
なんせ、無意識というからには、
自覚していないんだもの。
自分の意思とは無関係に感じてしまうようなポイントだし。
意思を持ち、我が運命をこの手で…
なんて熱く感じていてもさ、意思を持たなきゃという以前に、本音を今わかりうる分だけでも感じない限りは、運命に革命を起こせるほどの変化はでないでしょ。
やっぱ、こういう考えって初歩的なことかもだけど…
それでも
初歩的だから大事なんじゃないのかなぁ……。
なんてね、思うのです。
要は――、
繰り返し感じる練習。
自分が本来持っている感性をそのままに感じようとする姿勢。
そして、それらのありのままを理解するための様々な知識。
自由という我侭に思われやすい、ありのままの自分。
天と地と、これらの中に存在するちっぽけな人間と自分。
また、ある種、哲学的な考えを通過するけど、哲学を超える自然の掟。
こういった無限大に展開され、最後にはひとつの点へ帰るような…。なんというか、そういうありのままを捕らえる精神の逞しさは、一生を掛けても辿り着かないかもしれないけど、
それでも、
自分のために考えることが、誰かを守ったり、大切な人を守ることに繋がっているのだと思うの。
自分の無意識が本音であるならば、その本音を無視しているということは、
自分を裏切っているわけでしょ。
つまり、自分に嘘をついているということにもなる。
事実を言えば大切な人を騙していることになる。
だから、結局、大切な人を傷つけてしまう。
それは、自分が未熟だからだよね。
けど、やっぱり、未熟な自分が、守りたかった誰かを傷つける辛さは耐え難いもの。
だからこそ、自分が自分にどこまで正直になれるか挑めたなら、今よりは、大切な誰かを傷つけることは少なくなるでしょ。
そう考えれば、未熟を嘆くことだけに、思考が留まったりはしないと思うんだよね。
まあ、それもこれも占い師という立場からじゃなく、ただの人間としての私からの言葉です。
だから、きっと、こういったことを書いていても、
偏った捕らえ方とか、
物凄く未熟な部分とか、
そういうのが無いわけが無くて。
それでも、一生懸命、何かを感じようとしてくれる人がここに訪れてくれる。
仲間じゃないかもしれないけど、
それでも心の中で何かと何かが繋がる。
だからこそ、
人が自分らしく生きていけるその中心へ、
共通する何かを共有している人と一緒に、
迷いながらもすすんでいけたなら好いのにな…。
……なんて思っています。
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