もともと自分に自信が持てなくて
人に対し辛く当たる。
或いは
本当の意味で自分を見てくれた愛を知らなかったために
平気で人を傷つけたりする。
それは現実的に考えて、自分自身がまずは被害者なのだ。
けれども、その現実から生み出される被害は、自分自身だけでは収まらない。
自分以外の弱い人間。
また、立場的に下の人間。
言い返す力や、言い返せない立場の人間。
そういった者へ被害は広がっていく。
そして、場が変われば、職場と家族などその範囲は拡大していく。
自分に自信が持てないのも、
本当の自分を愛してくれないということも、
どちらも愛を知らないという結果へと、最終的には結びついてしまう。
愛を知らないということは、人として生きていく上で、何よりも耐え難い恐怖でしかない。
人格を形成する根底に、恐怖が根付くということは
虚勢をはるか
威嚇(いかく)するか
嘘吐きになるか
自分が無くなってしまうか
妄想の中に封印されてしまうか
たとえば、そういったことが、結果として起きてしまうのだと思うのです。
そして、恐怖が取り巻くそれらの行為は、最終的には“核という中心点を”必然的につくりあげてしまう。
それはまるで台風の目が核となって吹き荒れているかのような状態ともいえる。
更にいうと、台風が存在しているとしたら、当然、大気があり、大気とは脅迫的な精神状態を意味している。
だから、その場合、何かに見張られ何者かに急かされるかのように日々を過ごすこととなる。
始めは、小さな台風だとしても、移動するごとに威力は増すのが台風。
ただ、台風とそれらの精神状態が異なるとしたら、
台風は威力が衰えていくけれど、まともに考えて、人間であった場合は威力の衰えとは存在しないもの。
仮に威力の衰えが在るように見えたとしたら、表面から見て取れる状態というだけで、実際は活火山みたいなもので何も変わっていなかったりする。
こわいから
恐ろしすぎるから
だから
脅迫的な気持ちから強くなるか
脅迫的な気持ちに呑まれゼロになるか
そうしていかないと
生きていけないのは理解できる。
だとしても、傷だらけの気持ちが核となっているからといって
誰かを威嚇すること
誰かに嘘をつくこと
誰かをわざと無視する
そして、その結果、無神経な言葉や態度で精神的な暴力を振るう。
それは許されることではない。
なぜなら
人が人として生きていく上での
最低限のルールとなりえてしまう現実でもあるし
悲しくも、それが人であり続けるがための見えない掟でもあったりする。
だからこそ
たとえ被害者だとしても
被害者だということ
と
人を傷つけることは、別。
無闇に無差別に人を傷つけて善い訳がない。
第一、それら両者は、同じ土俵で考える物事ではない。
連なり引き続いている流れが走っているからといって、同じテーマにはならないのだと、そう思います。
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