人は時として本能のおもむくままに行動をする。
事が大きくなれば犯罪となり、
事が小さければ食事や他愛も無い行動となる。
全ては本能という無意識から湧き上がる感情によって支配される。
当然、霊的に言えば本能という観点とは異なった位置から支配を受けている。
本能は卑しく醜く汚らわしいのかもしれない。
たとえ、その人間が社会的にどれほどの功績をのこしていたとしても、
遺伝として備わったベースが悪に偏っていたりしたら、
どこまで上り詰めても機能的な意味も含めて充実感など存在しない。
だが、その意味は
人間が儚く木偶のようなものということにもなるし、
どんな人間であっても、それがどのような状況であっても、
それらの環境のもとにある人間の精神は
自由だというのと同じことなのだ。
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さて、そういった感性も含め
人間が生きるために備わった脳がある。
また、脳は神業ともいえる機能を持っている。
だが、その神業は時として生きるためだけに稼動し、
自分自身が気がつかないポイントで「自分(の脳)に騙される」。
しかし、そういった機能としての神業を自分自身の肉体から見出すことは
とても難しく困難だと言える。
前文で、全てが本能により支配されている。と言ったけど、
本能は支配しようとしているだけで
実際は支配できないのだということ。
逆に、
なぜ支配できてしまうのかというと、
それは自分が本能に賛同し、
同等の意見だと最終決断を下すからなのだ。
つまり、自分が決定しない限り、
(本能から湧き出た思いを)脳が単独(この単独とは少なくとも本能を司るエリア)で「最終決断」などできないということ。
まあ、この部分は幾らでも話が間延びしてしまうので
このあたりで止めておきます。
ところで、今まで使っていた思考回路がありますよね。
その回路は脳機能が必要に応じて提供してくれた回路。
この思考回路以外に、思考回路と言う名の道筋は幾万通りもあるはず。
でも、
使わない道は封鎖されてしまう。
バスに乗る人が少ないからこの路線は通らなくしますというのと一緒。
で、こういった機能に支配されつつある人間の肉体だけど、
支配されつつあると言うことは
支配されてはいないわけで。
ということは、
その残り粕のような数パーセントがなんなのかと言うと…
「自分の意思」
と言われている部分。
じゃぁ、自分の意思ってなに?
意思とは本能から生え出た思いとリンクしたもの。
更に、自分がどんな思いであろうと「こうだ」と認知したもの。
その「こうだ」と思えるものの判断基準が思考回路と関与している。
しっかり使ってないと
脳に騙される。
でも
しっかり使っていても
脳に騙される。
それだから脳は神業なのだと思うのだ…。
けどね、
数パーセントの何かが何だったとしても、
その数パーセントが認めたものが
今の自分の気持ちや意思
となってしまう。
その気持ちや意思が脳に騙されてた結果なのかもしれないし、
騙されていないかもしれない。
その基準や判断をすることは専門家でなくては万人には無理だ。
だからこそ、
状況分析をしないことや
感情を前面に出した行動は
途轍もなく危険だといえる。
それでも、
自分自身が今わかる範囲、
それが自分の中での
真実
だということ。
間違っていたとしても、
正当だったとしても、
なんだったとしても、
それが真実でしかない。
だから、
ひとつひとつ丁寧に繰り返すことで
本当が生まれる。
その本当とは、
この世で間違っていても、
狂っていたとしても、
自分の中で本当なら本当なのだ。
精神が旅に出てしまうと
何処まで旅を続ければ良いのかわからなくなる。
それでも、
そんな場合であっても、
わからないことがわからない
という、その思いが今の本当なのだと
そう思います。
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