私は、占いの仕事を始めてから、脳の仕組みが気になって仕方が無い。なぜなら、うちにお客として来る人間が、追い求める果て。つまり、(その人自身が)自己の出来うる範囲の限界。この限界をアドバイスという形式で提示しようとした時に、ほぼ「思考の問題」が絡んでくる。
というか、単に、私自身が思考に拘っているのかもしれない。
だとしても、今の自分がしっかりと取り組むべき目標のひとつとして「脳内の思考」があるのだ。
簡単に、どんなふうな構図で取り組んでいるのかを説明するね。
まず、アドバイスをする段階でのお話ね。
「思考」というからには、お客さんが自覚している「意識、または考え」なんかを軽くでも伝えなくちゃいけないわけだよね。だって、「今は、こんな風にしているけど、今後は、こんなことを…」みたいな説明をしなくてはいけない場合、「自分が自覚していない内容」をベラベラと言われても…「はぁぁ?」と、ぶち切れたくなるに決まっている。そこで、流れのひとつとして、現状の説明をするの。
でね、自覚している状況を説明するということは、その人の無意識のエリアを把握しなくてはいけない。
この無意識のエリアというのは、例えば、小さい頃のことだったり、ある時期からの特定の思考だったり、そんな様々な過去の状況とも繋がっている。
そうだね、しいて言えば、血管みたいに網羅してある細かいバイパスがたくさんあって、心臓という現在の「自覚」に辿り着く。そんな感じなんだよ。
それで、その他にも色々と四方八方から見る。これは、先日ブログ記事であげた「
美しく魅力ある闇~心に深い闇を抱えているあなたへ 」でも、似たようなニュアンスが書いてあるのだけど、中心を基点にして、様々な方向からサポートするんだよ。
要は、柱となる軸(1番肝心な弱点みたいなもの)に対し、支えと成る様々な範囲の事柄(一見、何の意味も無く思えるようなアドバイス)で、中心の軸を支え、完璧にしていく。
当然、それらは、本人がその目的に進むという意識を「意識しなくても」進めるような仕組みにしてアドバイスをするの。
その軸と成るのが、無意識のエリアである「脳」。これが、今の私が捉えている中心なのだ。
その脳だけど、脳の細かな部分は、見えたとしても必要が無ければ伝えない。けれどもね、私の中では時として(お客さんによっては)重要な役割を果たす部分になる。
と、ここまでが本題前の補足。
んで、ここから、話が本題になるよ。思考って、思考をさえぎる思考や、思考を挑発する思考、思考を抹消に近い状態にする思考、などなど、脳内の分泌物も含めて色んな構造で成り立っているように見えるのね。少なくとも私には、そう思えるの。
そういった、ブロックされている思考を、(目的に視点を置いた場合の)何ら障害が無く循環できる情況。それを柱の周りをサポートした状況。これを「アドバイス」として伝えている。
要は、「見えていることが表」だとしたら、「裏面の自覚している意識」に「アドバイス」を添えて伝えているということだよ。
うん。ここまでが本題。だけれども、更に奥に本題があるんで、ここまでの話を頭の片隅にでも置いて読みすすめてください。
これをどうして書いたのかというと、別に占い師の人の秘密の勉強会(ちっとも秘密じゃないだよ)のためでは無いのだ。ちなみに、占い師が、占い師の視点で見ても、「分かっている人にしか、分からない」よ。だって、その視点で書いているわけじゃないのだから、当然だし。
でね、人間は生きていたら、じいさん、ばあさん、になっていくよね。
身近に居るじいさんとばあさんが、とても素敵な人しか居ないわ。というお方なら、読んでも意味が無いかもしれないが、素敵なお年寄りばかりが存在していないのがこの世の中だよ。
年を取ると、誰かに頼りたくなくても、頼らなくちゃいけないときがある。
ねぇ……、老後とか考えたりする?
私は考えるんだよね。ま、その話がしたくて、この記事を書いたんだけどさ。
老後を考えるからといって、「年を取る恐怖から…」なんてことじゃなくて、より良い老後を過ごしたいでしょ。そう、無力に近いばあちゃんは、誰かにすがって頼るしかないんだもの。
そんなばあちゃんになった時に、おまえはかわいくないから、ひとりで生きていけ。と、言われたか無いし。
ほんでもって、楽しく暖かく(頭が?)過ごして人生の幕を閉じたいじゃない。
どうせ同じばあちゃんなら、かわいいばあちゃんが良いに決まっている。
それにさ、ばあちゃん、大~好きっ。そう言われたいし。うんうん。あ、でもね、ばあちゃんとは呼ばせないぞ。えりちゃんと呼んでもらう( -_-v)ぶぃっ
そうなの、これってば、私の夢のひとつでもあるのよ。ま、長生きができたらの話になるけどもさ。
年を取ると、脳の機能が錆び付くよね。
ぼけちゃうとか、そんなじゃなく、ゆっくりしか機能しないでしょ。当然、動作もゆっくりだよ。
ほんでもって年を取ると、脳は、若い時に培ったものだけが残る。それも、大抵が予想外のことが残る。
この予想外が、私がなりたくない「かわいくないばあちゃん」なのだ。
これはね(…この辺りからが、本日、言いたかったことだよ)、若い時に努力して、自分の精神やら性格やらを改善、または維持していったとするでしょ。
だけれども、脳というものは、頭の限界を自分が把握している以上に、出来るヤツ(脳機能)なんだよね。
つまりね、これが自分。と、思っている自分は、自分ではない場合がある。ということだ。
ほいでもって、そんな理論は何処からくるのかというと、周りのお年寄りで、素敵とは無縁の人がいない?
そういうお方たちは、なにか自分自身を過大評価してはいませんか?
物分りを良い振りしてても、そりゃー、ひどいぞ。と、言いたくなるくらい真逆の事をやっているとかさ。
結果から言ってしまうけど、あれは、「脳が壊れていくというよりは、強化され続けた思考が生き残る」という状態だと、私は思っているんだよ。
うん、これだけを今日は言いたかったんだよ(笑)
それにしても、長すぎだな。ま、そんなに簡単に物を言えるほどお利口さんじゃないんでね(言い訳)
自分で、出来るヤツ。そう思っているのが、思い込みじゃなく、本物(に、順ずる過程も含めたもの)であれば、じいちゃんになっても、あちゃんになっても、素敵な老後を送れるよ。と、思うんだよね。
だからこそ、今のこの時の連続が大切なんだと思っているの。
私はね、素敵な老後を送りたい。老後は無力だからこそ、かわいいばあちゃん(ばあちゃんとは認めないが)で、居たいと思うしさ。
そのために、今はね、自分の精神と向き合うことをしているんだよ。
人として本当のことを、ゆっくりでもいいから丁寧に知っていく。玉葱の皮みたいに奥に奥に存在している「本当のこと」。それだとしても、時間が掛かることが問題じゃないし、知りえた範囲が問題でもないと思えるんだ。
だって、玉葱は皮しかないもの。本当のこととは、玉葱の皮むきと似ているし、それ以外の表現が私には見当たらない。ということは、本当のこととは、きっと玉葱なんだと思う。皮を剥いても玉葱だし、まんまでも玉葱だ。
本当のことが生きている間に分かっても、それが本当じゃないかもしれないでしょ。
所詮、人間が考えられる事実とは片寄ってしか考えられないと思うの。専攻が違えば、同じ研究をしても、意見がかち合うのと一緒じゃないのかなって。だからこそ、楽しいし、おもしろい。
ま、私は、そうやって年を重ねていこうと思っているんだ。
自分と向き合い、本心と向き合い、泣いて笑ってばか言って。
ほいで、年を取り、その時に柱に残る精神は、
「ばあちゃん、ばかだな~」
って、腹一杯に笑って言われるような、そんな人間で居たいとそう思うよ。
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