人と人が一度大きくいがみ合うと、出来てしまった溝は消えづらい。
そうなってしまう相手が近い存在であればあるほど、溝は深いように思える。
そんな時、きっと、さみしい気持ちや、悲しい気持ち、そして状況によっては絶望。そういった感情が怒りの奥底でうごめくんじゃないかな。
どうして、こうしてくれないのだろう。
なんで、こんなことを言ってくるのだろう。
いつもいつも、こんな態度だ。
そんな言い訳を自分にしながら、辛い自分を更に苦しめてしまう。
してもらいたいことだけじゃ駄目だよ。自分がどうしたいのかハッキリしないと。
応援する声は虚しく木霊する。
それだとしても、そんな余裕も無いくらい目一杯なんだよ……。
それらの言い訳は、自分を闇へ闇へと追いやってしまう。
余裕がなくなる時とは、自分の実力を越えようと、本気で「自分という壁」にぶつかっている時なんだと思う。
そして、どうにもならない状況では、大抵が選択肢は限られている。
この状況でさえ、受け入れたくも無いのに、限られた中から「不満足だと思える選択」などしたくも無い。
だとしても、今起きている状況は刻々と時間を刻み、今という時を重ねていく。
こんな状況で誰かに対する強烈な感情、または、心を掻き乱す人物がいる。
リセットできたら楽なのに。そう、思ったりもする。
当然、相手も楽しくなんかない。そして何よりも息詰まる感覚は同等なんだと思うよ。例え、相手の立場が有利だとしても、的を変えた急所を抱えている。長期戦になればなるほど、そんなものだと思う。
どんなに強敵だとしても、相手が鈍かったとしても、その人なりの急所がある。
急所を見破る最速最短の秘法は、自分が一瞬でも人の心になれた時に見つけられるもの。
自分が御釈迦様みたいになるという意味か。聞こえはいいけど、そんなのは堪えられない。と、思うかもしれない。
けれどもね、相手に対して媚びるという意味ではなく、相手の立場や状況を描ける想像力なんだと思うよ。
その瞬間、我が肉体に在る「人の心を開ける」もの。
人の心を無くしては、人とのいがみ合いは解消しないよ。
こういうのを悟りとは言わないね。それだとしても、「ぷち悟り」みたいなものじゃないかな。
だって、急所を知ろうと必死になったけど、結果として、人へ心を開くのだから悟りでもいいんじゃないの。と、思うよ。
いがみ合いが長期になると、自分が吐き出した悪が、いつしか「自分の中の真心」を支配して封印してしまうことがある。つまり、ただの「鬼」のような自分になる。どんなに弱々しく見えても鬼には変わりなかったりすることもある。
想像力から人の心を取り戻せれば、つくりあげた鬼から解放される。開放されれば、必ず自分が戻る。
その想像力を繰り返し続けること。
その効果は、自分を磨き大きくしてくれる。
「己の精神の器」を「相手の精神の器」よりも拡大できた時、全ての悪循環は消滅する。
まぁ、自分が壁よりもでかくなれば、今在る壁が、壁ではなくなるということだよ。
故に、相手へのみ変貌を願うのは神でさえ叶わぬもの。
[0回]