白月光
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あなたは本当の自分で生きてますか?

ちょっとだけ感想だよ

なんだか今日はやけに腰が痛いよ。と思っていたら、雨が降ってきた。
そういや、ここんとこ雨なんて降ってないからね。ま、たまには雨もいいよ。

どういう訳か、小っちゃい頃は雨降りが嫌いだった。雨降りに外を歩くと濡れてしまうから、そのことがすごく嫌だったんだよ。

いつの頃からか、雨が降るときに勉強とか、何かに集中するようなことをやると調子がいいじゃんと思えるようになったの。きっと科学的な何かなんじゃないかな。と、何となく思う。
だからといって、雨降りがマイナスイオン…。とは、言わないけどさ。そんなんじゃなく、もっと別の何かがあるような気がするんだよね。

ところで、先日記事でupした齊藤孝の「スラムダンクな友情論」。この本を三分の二くらいまで読んだのだけど、色々と考えさせられるポイントがあった。友情については勿論だけど、それ以前にもっと他の部分を感じたんだよね。

例えば、齊藤孝は、自分の思想や哲学的なことを表現しているんじゃなく、この世の本当を見抜き伝えているの。
この「本当」を伝えるために、この人はどれだけ間違いや失敗、または挫折という屈辱を飲み込み、己の血肉にしてきたのだろう。

この本を読み進めて真っ先に感じたことが、こんな感じのことだったよ。

世の天才も、世の秀才も、努力をする。ただ、天才は本当のことを見抜く目がある。秀才とは天才ではないから、努力に努力を重ねて、その中で唯一本当を発掘する。唯一の本当を丁寧にひとつずつ磨き上げ集結させた努力の賜物。そして、努力の賜物に満足せずに、集結を点として捉え、更に線を引く努力をしている。まさに素晴らしいし、素敵だよね。私は、なんとなくこの筆者のファンになってしまった。腹の底が綺麗な人間が書く文章とは、読んでいて気持ちいいものだね。

そして、そういう全体を感じる読み方から、本の中心を感じる読み方に変えていったの。

それで思ったことは、愛にしても友情にしても、やっぱ、思ったまんまを出してはいけない(自分の言いたいことをそのまま表現しても、相手には伝わらない。相手に伝わるためには表現を変えなくてはいけない。ちなみに伝わるのと、伝えるのとでは意味が違う)よね。ということ。

それに、混じりの無い情熱が信頼を確かなものにしていく。どんなヤツだとしても、自分が仲良くしたいと思うなら信じる気持ち。その気持ちが大切だよね。と、そう思った。というか、再確認という感じだな。

ほいでさ、この筆者の言いたいことが、物凄く分かる気がする。スラムダンクの漫画が好きでよく見ていた私には尚更分かるよ。なんというか、今はまだ読み終わっていないから上手く言えないけど、読み終わって自分の中でまとまったらまた記事としてupしようかなと思う。

ただ、読み終わっていなくても言えること。それは、浅はかに文章(スラムダンクな友情論)を掬い取ってしまい、浅はかに漫画(スラムダンク)を読んでしまうと、「言わなくても通じる信頼」。これのみがクローズアップされてしまうよねと思う。言わなくても分かるという、それまでの過程を踏まないと形にならないものがあるからね。読書する人間のセンスや品格も大切だよ。ま、これを読解力とも言うかもね。けれども、私が、今、言いたいのはそれ以前のセンスと品なのだ。


いつかのコメントじゃないけど、知るべき時に偶然に見える必然は、不思議なくらいさり気なく私の前に現れたよ。今の私にはこの筆者の表現しようとしている何かが必要なんだろうね。
こういう縁を、いいや、チャンスを無駄にしないで、丁寧に人生を味わおうと思う。

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臭い……(´-ω-`)……

うちには「たま」という猫がいます。雄猫です。
ここ2日ほど女の子を捜しに遊び歩いて帰ってきませんでした。

で、本日、「ぶんにぁぁぁ」という雄叫びとともに帰ってきました。

が……

家の中に入るなり

く、臭い。

過去にも、帰るなり臭い時もあったのだけど。

今日は何の記念日なんよ、おまえ。と聞きたくなるくらい、くさい。
ほいで、記念日はドブ日よりなのか。おい、たま。


仕方ないから、新しい雑巾を出してきて拭いてあげたけど。
体毛は泥が乾いてカピカピ。
体中に草(福島では、ばか という草の実? 種? )を付け、そのカピカピの毛から異臭を放つ、たま。

baka.jpg
(←コレが ばか)




で、ケンカして噛まれた傷を私が拭いてしまったらしく、
842c0402.jpg「ぶんっにゃあ~」と、文句を垂れやがる。こんのっ(´・д・`)くさい猫のくせに。

ああ……。家中臭いわ。たまらない( ̄ω ̄||)
家中にエタノールを散布したいくらいだし。
(←ちなみに、おもしろくない時には必ずこんな表情をするんだよ)

決まってたまちゃんは、私の直ぐ傍で張り付いたように転がって寝ているのだ。
つか今夜は臭くて悪夢にうなされてしまうよ。
………換気しよっ。窓全開だな。


何をしたらこんな素晴らしいにおいになるんだよ。ねぇ、たま……。

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「100万回生きたねこ」を読んでみて

バカボンさんのコメントに、「100万回生きたねこ」の話が書いてあった。
私は読んだことがなくて、図書館で借りてこよう。そう思い、本日図書館で借りてきました。
この本は児童書で絵本なんです。知っている方も多いかもしれないですね。

何度も何度も生まれ変わり、100万人もの飼い主の愛の抱擁をすり抜け、ひょうひょうと生きてきた猫(雄猫)。猫は、死ぬことなんて、何とも思っていなかった。

けれども、しろねこ(雌猫)との出会いが、転生への終止符となった。愛の全てを捧げる相手(しろねこ)との出会いが猫の魂を満足させた。だから、2度と猫が生まれ変わることは無くなった。

という、そんな内容の本です。

私は、なんとなく飼い主に愛情を持てない、猫の感覚が掴めました。飼い主からすれば酷い話かもしれないですけど。
しろねこに出会うまでの猫は、生かされていたけど、生きちゃいなかったのかもしれない。魂が嬉しいと感じなかった。それは、しろねこと出会うためだったのか、若しくは、感じることを諦めていたからなのか、何れにしても本当のことは主人公の猫にしか分からない。


「そばに いても いいかい。」

そう、しろねこへ言った猫の言葉が男(雄)だな。と、感じました。その言葉には凝縮された100万個以上の想いがあるのかな。もしも、あったとしたら、その100万個の想いはひと塊の本当の愛なんだろうな。なんて、思いましたよ。


そんな風に言える男の人には強く惹かれますね。それに、腹の底からカッコイイと思う。
この猫が言った言葉は、確かに男の思いだわ。と、しみじみ感じました。また、しろねこのつれない態度があるからこそ、猫が言った言葉の重みを感じたし。
なんというか、猫は、しろねこに居て欲しいんですよね。

……う~ん。私、うまく言えていないかもですね…(苦笑)

それに、男って、女と違って、やっぱり強いですよ。その強さを自然に出させるのが女の真心なのかなと思う。まぁ、所詮、女は女だということだよ。うん。

ましてや、そう言われる女で在り続けたいものだな。
…ふと、素直な思いに駆られました。

この本から、素直な魂の光を見せてもらった気がします。
とても良い本でした。

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あなたに届きますように

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記事内の参考画像「00」http://pon00.fc2web.com/00/00.html


人間の活力とは漲り吹き上がるもの

生きることへの希望が 我が命に火を注ぐ

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活力を存分に発揮しようと 
ただ 我武者羅に必死になる





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なにをそんなになっているの……
疲れてしまうよ
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目を開けよう きっと きっと 何かが見える




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「愛するということ」への補足記事

前回の記事のままだと混乱を招くかも…。と、思ったので、ちょっとばかり補足のつもりで書き足しておきます。

まず、あの記事を読みきった後に思うであろうと予測するのが、「自分だけがよければ良いのか」という、ある種、エゴイズムな考えなのではないか。と、人によっては感じるのではないでしょうか。
それはそれで、ある一定の条件を揃えてしまえば、真実ともいえる。けれども、真実とは本当のこととは違う。

ここで言う本当のこととは少なくとも私の中での本当のこと。

じゃぁ、本題。
例えば、誰かのためにこれをしたい。という気持ちがある。その気持ちを噛み砕いていったら、またしても「誰かのため」という考えが残るのだろうか。

じゃぁ、仮に残ったとしよう。その残った考えは、もうそれ以上、噛み砕くことができないのだろうか。
ひょっとしたら、案外、とっても簡単なことを見落としていたりして気がついていないのではないか。ということも考えられる。
なぜなら、人間(その他の生物もかもしれないが)の脳は、様々な物事の結果をフォルダのような状態で分類されている。分類されたそれを必要な時に引き出し、新たな情報と照らし合わせ、どのフォルダへ分類するのかを決定する。
決定を下すことと、決定までの過程は、自分が人生の中で培ってきた「思考癖」により選択されている。
つまり、自分が今までどれだけ有効的な思考を取り入れてきたかという事実に基づき、脳が動いているということだよね。

で、話を戻すけど。
「誰かのために」
ではなくて、ひょっとしたら、

その人が悲しむのを見ている自分が悲しい。

ということもありでしょ。

自分がどれだけその人を欲する想いがあるのかどうか。その自分の中の事実を把握したとしたら、誰かのためにというのは存在しなくて、自分がそうしたいから。と、なるよね。
突き詰めていくと正しいとか正しくないとか、そういう様々な、思想や哲学の話になってしまうかもしれない。
けれどもね、思想も哲学も本当のことなのかとなるとそれは違うわけで。
本当のことっていうのは、思想とか哲学とかとは違う。もっと別次元にあるものなんじゃないかな。と、思うの。

ま、だとしても、この世の愛の全てを見て、全てを知る。そんなことは無理に決まっている。出来るとしたら、この世の同じ人間が感じる「感情の細やかなひとつひとつ」を自己の中に見出し、突き詰めていくしかないのでは。と、思う。
何かを突き詰めていくということは、もしかしたら、たくさんを追ったとしても何れひとつに取り組むことではないのかな。なんて思うのですよ。


そして、補足の記事に再度補足するとしたら、自分ができうる事柄をセーブして、より完璧にしていく。ということ。
10あるものを10行なうのではなく、例えば、10あるのなら6だけを真剣に行なう。すると、精神の余裕と肉体の余裕が現れ、無茶をした時に発生する無意味なストレスは自動的に消滅する。しかも、10の内の6だからこそ、実践した行為は完璧になっていく。
そんなふうに、先を捉えていくと、自分の能力を超えた意味の無い行為が目立つ。けれども、意味の無いものなんてこの世に存在はしていないと思うのだけどね。
つまり、やりたいことと、できることは違うということ。


最後に、補足が更なる混乱を生み出したかもしれませんが、その時はごめんなさい。

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愛するということ

人は誰かのために生きている。ひとりという孤独は何よりも耐え難く、それ故、精神を崩壊することもある。
自分だけが良ければ良い。そういう人間をこの世の多くの人間は酷い人だと感じる。そして、おそらく酷い人だと思うだろう。

誰かを愛するということであっても、其々の精神により空間というか世界のようなものが、異なったように私には見える。

例えば、芸能人。そういった人間もそうだと思う。
芸能界というある種の空間に、やはり幾層にもなった(いわゆる地位の)階級のような位置づけがあり、ともに、異なる精神の空間が色分けされたがごとく混在している。

それらの世界に居る人間は、やはり凡人とは“違う空間や世界”に居る。

さて、こういった層の違いのように、この世の人間が持つ「愛の精神」も分類され、各々が振り分けられているように私は感じている。この層を上下のレベル分けである。とでもいうかのように、階級を見ている訳ではない。
しいていえば円グラフ。終り無き円グラフといったところかな。

ただ、誤解して欲しくないとしたら、この振り分けが差別しているという意味で書いている訳じゃないということ。
人間なんて、地位も名誉も財産も、そういった衣装をどんなに身に纏ったとしても、ただの人。
今、言っているのは、努力して磨きぬかれた精神の話だということ。そして、それら精神へのジャンル分けをしようと思えばできるよね。というお話だということ。


でね、今回、記事としてあげたいなと思っていたことは「愛する」ということについて。その話をする前に、精神の異なる空間があるのだと、感じている私の考えを話しておきたかったの。
「愛する」というテーマだからといって、「愛される」ことと「愛する」ことの違いとは云々。なんて意味の無い論議は飛ばします。
まず、愛するということが鮮明に絞られれば絞られるほど、複数のものから、何れ、ひとつを選び他を捨てる(或いは諦める)という結末になるのだと思う。そして、他を捨てるという意味の中には、ふたり以上の異性を愛するということもあるだろうけど、そういう時って異性ばかりとは限らない。様々な「捨てる対象」があるはず。

で、そこで選ばれた愛。選び抜かれた愛の対象という方が良いかもしれない。この対象をもつ過程というのが精神の振り分けを作っているのだと、私は常々感じています。

愛の対象が創られていく過程。その的についてのお話をしたくて、だらだらと無意味に思えることを書いていたの。じゃぁ、早速だけど、的の話。

自分の中で、永遠ともいえる愛を誓える相手がいますか? 

その対象をあなたはどれだけ見ていますか。
その対象が崩れ去りそうな時に、今ある全てを投げ打つことはできますか。

そして、その対象を自分が大切だからこそ捨てることができますか。

こういう自分への問い掛けと、問い掛けにより発生した自分の答え。それが的を絞るということだと私は感じています。

自分の中の的とは、現実と照らし合わせた時に、本物であると説明できるものだろうか。
だいたい脳というものは適当だと思うのだ。自分が把握して理解を示した事柄が、現実の理解なのか。となると違っている場合が結構ある。自分の中の当たり前という壁が、自分の世界を狭くしているようなものだ。
日々、自分の行動や考え、そういった事柄への疑問符は必要だったりもする。

疑問符がどれだけ自分の中で存在しているのかと、それらを解決する意志と、それらの結果(自己の中の実績)。そういった繰り返しにより、円グラフの位置づけのようなものが決定されていく。



だからこそ、私は思います。愛するということは、自分を大切にし、自分を愛した分だけ誰かを愛せるものだと。

そして、何よりも、自分にとって、その人が必要だからというエゴにも似た熱い思いから発せられるものであると、そう思うんですよね。



~彷徨うあなたへ贈る言葉~

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「自己の中の石のようになった超えられない己の思考があるから、相手の本当が見えない」

解説 いかに与えられた脳を機能させるかということ。今在る思考に満足した人間は、大量生産された産物であるかのように私は思える。

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「誰かのためにという前に、自分はどうしたいのかということが、己の魂の本当」

解説 腹の根底から現れる「誰かの為」という思いが、天に近付けば近付くほどに、己が己を惨殺しているのと同じ。それは、まるで夢の中で生きている住人が語る、白昼夢のようだ。

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「スラムダンクな友情論」齊藤孝~文春文庫

最近、今邑彩の蛇シリーズを読破した。
読んでみて、う~ん。なんというか、長かったよ。うん。
それにしても、最終巻の暗黒祭。あれはテンポ良く読み進んで一気に読破。
読み終わってしまうと、長かっただけに、これがさ~さみしいの。連ドラが終わってしまって楽しみが無くなってしまった感じになる。うんうん。

あ…。そうそう。ほいでさ、今邑彩の別な書籍も読んでいるんだけど、それとは別に「齊藤孝」の書籍も読んでいるの。
やっぱ、秀才の書く文章とは分かりやすいね。余計なものが無くて、伝えたいことだけが順序良く、そして整理された状態で、頭に入ってくるよ。

この齊藤孝は、児童書も書いていて、うちのちびがファンなんだよ。
「読みやすいし、私の宝物~」
そう言って、ちびはその本を大切にしているよ。

ちびが買ったのは、確か、名作を扱った内容だったはず。けれども、ジャンルは国語だったと思ったな…。(ちびに、そのうち、機会を見て聞いておきますね)
つかこれがさ、大人が読んでも凄くわかるの。秀才と呼ばれる方たちのお話は、大人とか子供とか関係無くて、例え、どんな人間が聞いていても、不思議なくらい分かる。
そういう人間って、凄いよ。と、しみじみ尊敬してしまう。

だとしても、努力の賜物とは言うものの、並大抵の努力じゃ叶わないからね。うん。

でね、今読んでいる齊藤孝の書籍なんだけど、タイトルにも書いてある友情のお話し。

齊藤孝の書籍を何冊か読んだことある人は分かると思うけど、この人の文章には(全ての書籍ではないのだけど)ルビがふってあるんだよ。そう、つまり、子供が読んでも理解できる代物というわけ。
その友情の本を私が読み終わるのはいつなの。と、ちびは首を長くして順番を待っているんだよね(笑)

ま、機会があったら立ち読みでもしてみると分かると思う。こんな風に分かりやすく誰かに話ができたらいいのにな。なんて、そう思ってしまうような本だよ。
それに、普段の頭の使い方が学べる。そういったヒントがたくさん書いてあるよ。その文章を見つけるとさ、思わずノートに書き出してしまいたくなるんだな。

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感じるという全ての感覚

この世とは何だろう。実際、本当に存在しているのはなんなのだろう。
人間とは、生物とは、何者なのか。

ちょっと前まで拘っていたこと。拘っていたというと可笑しいけど。なんというか、頭の片隅にいつも小っちゃくなって座っていたヤツたち。

今の私の頭の中で、ヤツらは凍結されている。
その代わりに別なヤツが呼吸しているよ。


時々ね、私は考えすぎなのか。と、思うことが一瞬だけどあるんだよ。でもね、それって違ってて、霊感のせいなんだよね。霊感っていうのは基本的にその生命体の「感じる感覚の全て」が鋭くなっている。それも、最初からそういう風に設定されている。


感じることに限界というものは無く、その感覚に伴い、霊感は並行している。
感じることを辞めてしまうということは、私の中では、己の生命の死を連想する。
ただ、死しても尚も感じることが鳴り止むわけではない。
そのふたつの事柄の大きな差は、感じたことを処理する「脳」があり、いかに深く繊細にそれらの脳を使い込めるかどうかということと、全く持って脳が使えないかということなのだと思うよ。
だからこそ、命が大切なのだと思えるしね。

感じるという全ての感覚、そこから生まれたひとつひとつの思いが何者なのか、という無謀な探求をずっとずっと続けていこうと思うよ。
それは何のためになのか――。
自分を知るため。そして、知った分だけ人を知るため。

だって、本当に守りたい人間を守れなくなるでしょ。
悲しむ自分が辛いんだよね。

だから、そうしているんだよ。

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プロフィール

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福島の母 占い軒龍卑(haruka)
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女性
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1969/11/01
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
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軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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