浮気や不倫についての関連記事へ賛否両論の意見をチラホラいただいています。
浮気や不倫は自由ではないのかというような内容で本日拍手からのコメントがありました。
その事について、あまり時間が無いので手短に書きますが…
さみしいから誰かと居たいから恋愛をする。それがたまたま浮気や不倫という形だった。
それはそれでさみしいという感情面からいって至極自然なことだと考えています。
ただ私が言いたいのはそうしたさみしいという感情面からいって至極自然な出来事があったとしても、そこには現実が伴うということです。
仮にですが、相手は家庭のある身なので、家庭側に気が付かれないように付き合っていたとして。
その場合、なんとなく続くとかなんとなく別れるとか、あるいは気づかいにもかかわらず泥沼だとかがあると思います。
ですが、人生が変わるほどの追い込みをかけられる人も中には居ます。
要するに何をしたいのかは個人の自由だと私も考えていますが、いわゆる自由を選択するということは
気が付いたら遅い。
という結末を迎えることがあります。
まあ・・・殺人者の全てが死刑ではないですが死刑になるということもあるわけで。これは未成年者がどうせ未成年だということで余裕な気持ちを持ち、結果、死刑になるというのとも同じだと考えています。死刑という状況にたまたま自分がなることもあるということです。
つまり生きるべく選択は自由ですが考え方によっては人生が暗転することもあるので、とりあえず最悪の結果を受け入れられないなら止めた方が良いんじゃないかという意味です。
当然、最悪の結末が来るとか来ないとかそうした確率やギャンブル的な発想からの考えではなく、生きていれば現実が伴うのが当たり前ですからそういう意味です。おそらくこれは国語的な考えからの話ではないと思います。
「生き方は自由+最悪を考えなかった=今を生きていない=現実を生きていない」
「生き方は自由+最悪を考えた=今を生きている=現実を生きている」
少なくとも上記はこの世の法則にはなっていると考えています。
しかしこれはあくまでもこの世の法則という世界観の中で生きているまたは生きていこうとしている人だけが必要な情報なのかもしれません。
この世の法則の枠外で生きていこうとしていることに対し私は批判も反感も無いです。
なぜなら人が人の構造を貫いた結末が枠外に値するからです。
優しく言えば人はもともと枠外に生きるべく細胞を持たされているわけで。
ただこの世の法則に気付こうとして気が付くかどうかで生きる空間が異なってくるというだけのことです。
なので浮気や不倫は不道徳なので止めなさいというつもりはさらさらないです。それも生き方です。浮気や不倫をすることが枠外なのではなく、最悪を覚悟しているのかどうかで枠内か枠外かが決まるという話しです。誤解しないでくださいね。
それでも浮気や不倫がどういう事実をもたらすのかという、現実があります。
現実とは見ているものが単体で存在しているわけではなく、血管のように網羅されているのが現実です。そうした現実で人が痛みを感じるとしたら代表的なもので自分を含めた人の気持ちがあります。
人の気持ちまで考えてとは思いませんが、自分が辛くなるのは耐え難いですよね?それも現実ですよ?というその部分を伝えたいがためにAさんからの浮気や不倫についてのコメントから記事をいくつか書かせてもらいました。
そして本日拍手からコメントを入れて頂いた方がなにかを誤解しているような気もしたし、また私の捉え方によっては賛同しているようにも取れたので、引き続きこうして記事を書きました。
時間が無く慌てて書いているので文章そのものもそうですけどつなぎとかかなりおかしいかもしれませんが、ご了承ください。
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