あなたは本当の自分で生きてますか?
なんだか私ばかり書き込みしてるような感じが・・
文章でやりとりする難しさを感じていますが
この記事を読んでまた思うところがあったので書き込みさせてください。
言葉の定義とかそういうことをキチンと決めないと話せないことではありますが、
私が思ったままを書きます。
なんか感情がおかしい人が多すぎますよね。
揉め事を避けるために、自分の思っていることを表現しない人がとても多いように思います。
子どもでさえ、そうです。
私は子どもと接する機会があるときに、子どもがよく口にする「なんとなく」とか「わからない」とかいうことについてしつこくどういうことか聞いてみました。
「なんでそう思うの」「どこがイヤなの」・・
でも私が接したほとんどの子どもが、次の言葉を見つけることができないのです。
結果次の言葉が出てこないとしても、のど元まで出てきているのか、それとも、考えることすらしていないのかそこまではわからないのですが、様子を見ていると、考えること自体拒否しているような感じもします。
次の言葉を見つければ、おのずと何かとぶつかったり、もっと合理的な答えをみつけなければなりません。
本当はそれが必要なのですが、そんなこと(不完全さがわかって)格好わるいか、(議論を発展させるのが)面倒なのか、目立ってしまうのかわからないのですが、もうそこでおしまいです。
思考が完結などしないのは常ですし、その人が考えること自体が評価されていればよいのですが、今の世の中は完結していなければ、すぐにバカにされたり揉め事になったりしがちです。だから自分の思考の不完全さを隠すこと、つまりは、語らないことを選び、結局は議論が広がらないまま、黙りこくってしまうのです。ここで揉めない心地よさに心酔してしまうのです。
(そうしているうちに、考えることも忘れてしまいます)
文中にある「非凡な存在」というのがなんであるか、はっきりわからないのですが、
もし、ちょっと変わっていることということで、「いじめのターゲット」などであるとすると
そのターゲットは、もしかしたら、それぞれの思考が不完全であったり、思考が停止していることを、明るみに出すきっかけになるような可能性をはらんでいるから、その集団にとってある種の恐怖であり、その恐怖をとりのぞくために、抹殺する、つまりはいじめ倒すという方向が正当化されていくのではないかと考えたりします。何かを投げかける人、揉め事の種となる人は、「平和」を乱す人であり、集団にとって抹殺するに十分な理由があるのです。
(まあ、空気が読めない人にイラついたりはしますけど、この空気が読めないという言葉もクセものですよね。情緒を共有しないという場合は問題ですが何かを提案するという意味では賞賛されるべきだと思います。ともかくいろいろなものが一緒くたにされている感じがします)
学校や職場といった縛りがある集団では、こうして感情をおさえ、危うい均衡を保つことに全力投球する個人も、縛りがなくなると同時に、感情的には爆発するように思うのです。
何か問題があったとき、感情がわきあがるのはあったとしても、「いや待て」と、どこかの首相ではありませんが、客観的な視点を加え、修正を加えた後、どう対処するかという方向に動くのが本来ですが、
客観的な視点を加えない人が多いですし、もちろん自分を客観的になんて見られるはずはないのですが、それでも、一度は立ち止まらなければ、暴走してしまうので、形だけでも立ち止まるのが必要だと思うのですが、そんなことしないのですよ。
いや、本来なら、自分で客観的な視点を加えなくても、そこで、暴走した感情や利己的な考えや常識ハズレを戒める人などがいたのですが、戒めは、揉め事ですから、みんな避けてしまいます、つまり感情のストッパーが外れてしまっているような感じがします。
冷静に話し合うこと、思考を発展させることを評価する世の中になってほしいと思っています。
ただ、私がブログを読んで、はじめにおもいついたのはまったく別のことなんです。
(思考が飛びがちなんで・・・)
私の知り合いでもう若くはない年齢の人ですが、なんというか
情緒不全みたいな感じの人がいるんですよね。
感情といわれること
たとえば、怒ったりびっくりしたり、っていうのかなそういうことが生活のなかでないわけではないのですが、なんかへんなんですよ。
感情って何かの現象が起きたとき、たぶん、いろんなものと照らし合わせて、内から反応するものと思うのですが、その人の場合、こういうことがあれば、悲しいんだろう、こういうことがあれば怒るんだろう・・・
みたいな感じというか・・
まあ、自分のことについてはそれなりの反応なのですが、
他人が悲しいことに会ったとき、周囲は「かわいそう」とか「何とか助けたい」とか
自分自身のうちからそういう2次的な感情というのでしょうか、そういうものが起きると思うのですが、まさに他人事で、自分はかわいそうだと思わないとかそういうはっきりした判断があるならわかるのですが、そういうことがあればかわいそうなのかなあ・・とかこのぐらい助ければ十分だろう・・とか、世の中の範例に従って反応している、なんか自分の尺度がないような人がいるのですよ。
これってなんでしょうかねえ。私はずっとその人は情緒不全だから、その人に感情的に訴えても無駄だと思っていたのですが、考えてみれば、なんでそんな風になったのか不思議でもあります。
感情というものを学ぶ機会がなかったのか、感情を表に出して失敗したのかわかりませんが、もし世の中全体がそんな風になっていたら怖いですよね。。。ああでも、感情のストッパーがきかない人ばかりというのも怖いですけど。
思うままかいてしまいました。長くてすみません。
文章のやり取りとはとても難しいですよね。仮に話をして言いたいことを伝えられたとしても、それらを文章にすると、どこかおかしいんですよ。文章にしても話にしても言いたいことが伝わるということはひとつの技ですよね。そんな中、おばあちゃんのとてつもなく短いひと言がガツンと胸に届いてきたり…本当に言葉とは不思議です。
私はこのブログを通じて私自身がどういう人間なのかという自分の一部を表現しています。それは占い師であっても人生を歩く道は苦しいし辛いことも多々あるのだ、という当たり前の事柄を分かってもらいたいという思いと、こういった人生であっても何をすべきかどうすべきか、という選択をごく当たり前のように考えているし、特別な思考の持ち主ではないのだというこういうことも理解してもらえたらという気持ちで表現しています。
なので、うにさんのように私宛へコメントを真剣に書いてもらえることが、正直とても嬉しいですよ。占い師とは人の道を指示する人間だから己自身が長けているのが当たり前。なんて、そんな風に思われるのは真っ平ごめんです。しかもコメントが私の意見に反対しているからとか意見がずれているとかも思いません。だって、皆其々の考えや思想があるのが当たり前だと思っているし、それに“これが正解”なんてこの世に無いと思うんです。うにさんには色々な視点からコメントを貰えるので、正直素直に嬉しいです。
うにさんの言う通りで感情のおかしい人が確かに多いと私も思います。揉め事を避ける傾向もあると思います。意志の自覚が無い子供達がなんと多いのだろうと感じますね。娘の学校の生徒と話したり現代の若い子と話をすると「別にぃ」とか「どっちでもいい」という返答が返る利率が多いのですが、なんというか…、私が以前から感じていたのは、“適当なのがカッコいい”と思っている子供達が多いのではないのか?! という部分なんですよ。
うにさんがいうところの
>ここで揉めない心地よさに心酔してしまうのです。
>(そうしているうちに、考えることも忘れてしまいます)
↑おそらくは表現する方向は違えど、同じ地点を意味しているのだと思います。
それから「非凡な存在」の意味ですが、勿論いじめのターゲットとしての(非凡)も含みます。これは後々書こうかと思っていたのですが、非凡な存在とはいっても、いじめる対象もそうですけど、要は攻撃できる対象を意味して書いています。つまり、自分のコンプレックスとなるものを長所として完成しているように見える対象を攻撃することで、“自分のコンプレックス”を中和する。攻撃とはいっても、自分の持つコンプレックスを対象になる存在が所持しているという自覚がある場合と無い場合と両方あると思うんですよね。歪んだ意識の正当化とでもいえばいいのでしょうか、そういう心理って、子供に限らず持ち合わせている人間は多いのではないかと思います。
それを軽い意味の例えで表わすと、仲良しのA子ちゃんは流行のキャラクターの靴下を履いていた。凄く羨ましい。でも、お母さんが買いませんよと言ったから、流行のキャラの靴下を履いたA子はムカつく。だから、「似合わないね」と、言ってやった。みたいなこともあると思いますよ。こういうのって競争心もあるのかもしれないですが、何よりも本当に好きな事を知らない子供が特に陥る心境なのではないかなと思うんです。
結果的に自分に自信を持てなくなり、攻撃の対象となる他人や(あらゆる)非凡な存在を否定することで、安心するのではないのかと思います。
常々他人と自分との比較をし、競い合い、ひたすら走り続けるような苦しさを埋め合わせる(攻撃できる)非凡な存在が必要。それって心臓の薬みたいですよね。それが無いと生きていけない、みたいな感じに見えます。
それからうにさんの知り合いの方ですが、なんとなく思ったことですけど回答しますね。
まず私が思ったのは「知識」と「感情」其々の発達過程に差がありすぎるのでは?! と、感じましたよ。実際は幼少時からの家庭環境とか、本人の生い立ちなど深く関連しているとは思います。ただ、脳内において知識が多くを占めている。そして、感情を発達させなくとも容易にこれまで生きることができていた。という状況があったのではないかと思います。つまり感情を発達させないことで(感情が)退化したとでもいいましょうか。或いは退化ではなく遺伝的に感情の発達がし辛いということも考えられると思います。
ただし、あくまでも憶測ですよ。
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