『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』 (ゴーギャン)
↑ゴーギャンの晩年の作品に書き込まれた言葉。
遺書のつもりで描かれた作品で、貧困と病気の中で死を決意し、画家としての人生を記念するために全精神力を注ぎ込んで描いた作品だそうです。
若い娘や死を目前にした老婆など人の生き様がその作品には描かれています。
人はこの世に生まれ喜びや悲しみ苦しみというたくさんの感情を胸に抱き、人生という道のりを歩いていきますが、本当に何のために生きているのかと考えることがあります。それは無気力だとか希望が無くなっただとか、そういったマイナスイメージからの疑問ではなく、人の生きる意味とは、生かされ続けている意味とは何なのか。そういった漠然としながらも「答えなど永遠に無い疑問」が脳裏に浮かんでいるのです。
そんなことを考えるよりは、今日の夜ご飯は何にしようか?の方が大事だよね。と、現実に戻ると素直に我に返るけれど(苦笑) それでも、やっぱり「答えがあって答えが無く、答えが無くて答えが在る」そんな疑問のように思えるんですよね。
何のために生きているのか――。
今の私がここにその思いを記録したとしても、5年後、10年後、(生きていれば)きっと今とは違う答えを出すような気がします。ひとつを知り、謎は解ける。けれども、理解したことで更なる謎が現れ謎解きを強制される。
そうやって人は(本当に望んで、考え、悩み、行動をしていけば)成長していくものだと思う。
ここ最近、年上の女性との接点が増えている。そのたびに思うのが、私のひと言に、熱く涙し、感謝し、おまけに本気の笑いを見せてもらう。その表情を見ながら私は思う。きっとあなたから見たら私は人間的に未熟者なのにと。それでも、本気の言葉を貰う。その本気の言葉を貰えるからこそ、私も胸が熱くなるし人間同士の出逢いにとても感謝をする。
この仕事を続けている限りは休み無く稼動する努力がある。
けれども、そうしていくことが誰かの道しるべと成りえるのであれば、そんな努力はいくらでもしようと思う。
きっと誰かのためにと考えると、いつしか辛くなって嘘になる。
だから自分が「誰かの道しるべになったことで“ホッとしたいから、良かったと思いたいから”」続けていこう。そんな風に今日は思いました。
誰かのためではなく、「喜んでくれる誰かを見て、ホッとする嬉しく思う、そんな自分のために」努力を続けていこう。人生の偉大さを見て、人の温かさに触れて、心の温度が上がったことに気がつきました。
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どんな人生を歩もうと、命の存在にどんな条件が在ろうと、今生きている。
それは何よりも大切なことだし、尊いことなのだと思う。
死んでもいい人なんていないし、生きててはいけない人もいない。
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