世の出来事は目に映り、脳で繁栄(反映)され、そして経験という名の思考で処理される。
人は感情の生き物。
感じることでしか生きてはいけない。
この世の出来事は、どんな風に自分の脳に映っているのだろう。
誰もが其々の個性に従い、それらの出来事は、心の中で吸収すると共に、色や音や温度を用いて世を見据えている。
だとしても、今、起こっているひとつの出来事で、絶望する者もいる。また、歓喜する者もいる。
心は脳にあるという。
けれども、私には巨大な海のように思えて仕方が無い。
ある人は、小さな池かもしれないし。
ある人は、太平洋かもしれない。
それでも、海は無限に広がっているのではないだろうか。
小さく見えるのは、きっと、心の旅をしていないから。
私は小さい頃、海賊アニメが好きだった。
海賊の絵本も好きだった。
海賊は本来なら、とても悪い人だ。
弱い者を捕まえては、在るもの全てを剥ぎ取ってしまう。
けれども、その悪いことを腹の底から笑い飛ばし、悠々と世界を回り生きていく。そんな海賊が愉快だと思えた。
何時、出発したのかさえも覚えちゃいないが、私は、私の中の海へ旅にでた。
私の中の海は、「嫌な気持ちになると荒れた」のだ。
その度に、船は壊れてしまい、海面に船の残骸と疲れ果てた自分が浮かんでいた。
世の中は、私の難破とは無関係で、絶好の海日より。
そんな時の私は、必死に次の船の準備をしていた。
そう、心の旅に再度出発しなくてはいけないから。
ある時に、嵐が来た。
木っ端微塵になる船と共に、自分が海水の中に落ちていくのを感じた。
もがいたら何ほど苦しくなるか。どうせ疲れてしまったし、何処までも落ちてしまえ。
そう思って、海底近くまで沈んでいったことが在った。
初めての経験は、恐怖を生んだ。
体感したことの無い感覚は、私の中で違和感なのだと、ハッキリ自覚した。
ところが、何かの拍子に、悲しくも無いのに悲しいフリをして沈んでいく自分に気がついた。
本当は、頭で自覚しているほど心は痛くは無かったのだと…。
そこで、海水に身を任せてみた。
沈み逝く途中で、体が腐りかけていたのを知った。瞬間的に恐怖と連動し違和感も在った。
だけれども、意味も無く、根拠も無く、「大丈夫」そう思えた。
プランクトンのように消えた私は、「今まで、一生懸命つくった自分」だったのだ。
だからこそ、肉の体を所持しなくなった私は、海賊船で続ける旅だけが旅じゃないのだと気がついた。
だからこそ、もっとたくさん旅をしたくなった。
心の旅は、記憶というカメラで思い出のアルバムを作ってくれる。
心の旅は、海だけじゃなく、海底も、空も、宇宙旅行もできる。
心が欲すれば、どんな旅でも可能なのだ。
きっと、それらの旅行は、何処かで同じ旅をしている人間に出会うはずだ。
それが、「同じ世界の人」と言われるものなのだろうと思える。
それらは、地位や名誉や名声では決して手に入らないもの――、
それが世界にひとつだけの旅券。
今、私は、空の旅を楽しんでいるよ。
たまに、天候が悪くて飛行機が大破してしまう。
そんな時は、大気のチリと成り、気楽に浮遊している。
天候に逆らい続けても、疲れるだけだし。
だったら、その中で自分が少しでも気楽に居れる空間で生きていた方が、ずっとずっと楽チンだよ。
でもね、たまに海に浮いてみたりもする。
海中に沈んでみることもする。
旅の途中で、何度か同じ場所を巡ると、新たな発見があったりする。
その発見は、不思議と私を楽しませてくれる。
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世の厳しさが、まるで北極で裸のまま生活をしていけと虐げられているようだ。
そう思う以外に考えられない「環境」の人間もいる。
つまり、北極とは、今現在の環境。
そこに生息する自分の肉体が感じる極寒が、心境。ということだよ。
北極に行ったら(というか、当分そこに居なくてはいけないとしたら)、私なら、まず寒くないようにするね。
現実で言えば、対策だよ。
うーん。たぶん、ほぼ私生活に関わるような身近なことだろう。
例えば、続けていた、習慣化していたことをバッサリとやめる。打ち切る。手を切る。ま、そんな感じだろうね。
で、次に、北極で暮らしていくための普段の生活を充実させていく。
これは、現実だとしても、まんまだ。
食べる。寝る。くつろぐ。私なら、その空間を居心地を良くしていくね。
そして、この後は、繰り返し続くことだ。
食べ物をどうにかしなくちゃいけない。つまり、狩り。
これも、現実で言えば仕事だね。
で、食が満たされてきて、少しばかり心に余裕ができると娯楽を欲するようになる。
そうだね、折角だからオーロラが見たい。
私なら、間違いなく見に行くね。もしかしたら仕事(狩り)するより、オーロラの方が重要になるかもしれないな。
んで、これを現実にしたら、他愛も無い雑談で笑えたり、好きなこと(漫画を読むとかさ)をしてみたりする訳だ。
ほいでさ、北極は寒いよ。寒いし、娯楽もどの程度あるのかも分からない。
お隣のお家も、物凄く遠いし、不便だ。
しかも、食事が1番の難題の気がするよ。体力勝負みたいな感じだし。
だけれどもさ、この世に生まれても見る機会がそうそう無い「オーロラ」が見れるでしょ。……そりゃ、最高だ。
で、ここで、本題に入るけど。北極で生きていくのが辛いのだとしたら、毎日の生活の中で、「食(←前文の“狩り”)までの過程」を満たされてないから。ということは無いでしょうか。
それがベースと成り、人は娯楽(心の余裕から生まれる人間味。つまり、魂を剥き出しにしたような自分。または、ありのままの魂。などの、それらの状態)というものを魂の核から欲することができる。
今より、ちょっとだけ無理すれば届く何かは、たくさんあるはず。
そんな、ちょっとの連続が、心と体の無意味な力みをほぐしてくれる。
魂がその気になるには、ちょっとの無理なんだよね。
出来るからといって、あれもこれもとひとりでがんばると、北極で裸になるのと一緒だ。
魂から、アレがしたいよ。と、叫んでもらいたいなら、極寒を嘆く無かれ。
北極が我が身の今だとしたら、受け入れ、逞しく生きていくのがベストな選択だと私は思うのだ。
ほんでもって、「絶景」とは、この世の自然も、心の世界も、厳しいからこそ絶景と称されることがある。
別な表現をしたら、環境が厳しくないと見ることの出来ない、「絶景」がある。
そう、華やかで楽しい遊園地では、決して見れない「この世の美」があるはずだと、そう思うよ。
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