ひとつの出来事をたくさんの人間が見ていたとしても、感じ方は様々。
そりゃ、当たり前だよね。
各々が見ているその空間って、置かれている立場から物を見る習慣が付いていると、後々自分が痛い目にあう。その立場の名目が変わらず自分と関連している人間と続いたとしても、力関係が変わる。要は年月を重ねることで権力の差が出てくる。
その事実に目を伏せ…。いいや、理解したつもりの状態というべきかな。理解したつもりとは、頭の中では正確に理解している(自称)、しかし心が連動していない。結局、分かっていない。理解していない。ということなんだけどね。
まあ、その理解していない状態のまま、力関係を無視しつづけてしまったとする。
その成れの果てを意固地とか頑固とか、そんな表現になるのだろうかと思う。
その果てまでいってしまった人間は孤立する。
孤立の全ての原因がこのことです。とは、思うはずも無いけど、原因のひとつではあると感じているの。
この場合(力関係の変化を理解していないという意味で)の孤立ってさ…あまりにもかなしい。
年齢に関係なく多くの人が立場がどうあれ僅かな力関係の差を感じて生きていると思う。
そういうのって、見ているのも嫌だし、絡むのも嫌だし。ましてや自分が理解してない立場になるのも嫌。
それでも、絡んでないといけないような状況下に置かれたりもする。
そんな時、何が自分のその後の展開を邪魔するのかと考えてみた。
きっと、多くの人はプライドなんじゃないかなって思ったよ。
つまりは見栄。虚栄だよね。
その下にある自分の本当を見つけ出し、更に、それを表面化する。それってめちゃめちゃ度胸の要ることだよと実感してる。
でもね、見栄は、何の意味も持たず。カッコ悪いだけだから。
ましてや、そんなカッコ悪いヤツになりたくない。
だからこそ、今みている何かの視点の真ん中になっている起点をいつも探しながら私は生きている。
なんというか…
いやでしょ。
カッコ悪いのって。
どうせなら気持ち良く生きていきたいもん。
つか私の話はどうでもいいや。
まあ、この辺りで話しをまとめていくけど…
こうさ…。物事の起点になっていることって、辿ると不動の答えがある。
ただ、その答えが起点へ順ずる答えなのか起点なのかという違いはあるはず。
なんていうか…ゼロという数字から動かない何かというイメージがある。
そして、それらの起点の周りには、価値観や思想なんかの起点へ向かうものも密集している。
だけれども、それらは起点の周りに張り付いた「起点からの方向性」のひとつでしかないと思うの。
いろんなことをいろんなふうに考えてみたりしているけど…
それだとしても、方向性の一筋を本当だと捉えてしまうことがあったりすると人が魔の時に呑まれている。そんなことが多いように感じるんですよね。
まるで3Dを見て、誰かは見れたけど誰かは見えなかった。そんな感じの現象が異なる現実の空間を生み出す。その結果、異空間へずれてしまった誰かは異空間に存在してしまい、異空間からしか物事が読み取れなくなる。そんな感覚を受けることがあって。
また、そんな状態が続くと感覚が当然にぶってしまう。だから、魔が潜んでいても気づかずに足を踏み入れてしまう…。
立場や権力へ向ける意識(要は見栄)とは、そういう時空に潜む魔を容易に引き出してしまう。
まあ、結局は、見えない力が働く瞬間のひとつに見栄が多いに関与しているということ。しかも3D版。
大抵、どうでもいいような出来事が魔になったりするんですけど、そんな時って構えていると逆に気づかないもの。どっちかといったら肩の力を抜いて見栄を捨て、本来の人間の構造として備わった細胞により近づくことで異空間に踏み込みづらくなるものなんですよ。
誰にでも失敗はあるし、その失敗を糧として生かすためのひとつの材料。
そんな風にこの記事を読み取ってもらえれば良いなと思います。
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