あなたは本当の自分で生きてますか?
依存と殺気? なんの関連性が? と、感じると思います。
私自身、それを見つけた瞬間でさえ、自分の思考を疑いましたよ。
とうとう壊れたのか……と本気で考えてしまい、で、次の瞬間、理解した分だけノートに書いてみました。
…そこでやっと壊れていないという確信は持てました。当然、壊れていないという保障は私の脳が判断したものです。けれども、あくまでも、私の考えだということをテーマにして、読みたい方は読んでくださいね。
さて、依存する瞬間というのは「こうあるべき」という思考が自覚しているしていないに関わらず連発します。前回の記事であげた「王の椅子」と「家来の椅子」のやりとりが続きます。この状態は、これでもか。というほど高速回転で用意されている椅子でしょう。当然、「こうあるべき」と考えている時点で、既に現実を見ていない心境にはなりますよね。もし、現実を見ていたら「こういう展開にならないかな」とか、なんとなく希望らしき思いが僅かながらも入ります。
じゃぁ、どうして、現実を逃避するのかとなると、「大魔王の椅子」に組み込まれた「大魔王の掟を実行するため」なのです。この大魔王の椅子に座れるのは、(大魔王の掟に従い)王か家来のどちらかが先に座り、「それを見届けた上で満足した自分が座る必要性」があるのです。
この大魔王の椅子の大まかな掟の意味は「プライドがつくった別の(偽りの)自分」を守るためです。が、この状態をまともにとらえたら歪んでいますよね…。
では何ゆえ歪んでしまうのかを説明します。だとしても、例え(というよりも、よく多いパターンのようなものですが)としてのお話なので、これが全ての原因であるとは考えないで下さいね。ちなみに心理学の講義でもないです。普段、私の中で見えているお話です。
母性愛の量というのは、その人個人個人での受け皿があります。母性愛を受け入れる皿を100%として、その受け皿に100%未満の母性愛しか満たされなかった場合(母性愛の割合が0%というのも有り得ます)、代理となる母性愛(代理とは言っても、様々なパターンがありますが)を自動的に満たそうとします。これは、バランスが完璧に崩れてしまうのを代理を用いることで、安定する精神のバランスを取ろうとするためです。また、異質なものが母性愛の受け皿に入るので、終始脳からは「これは違いますよ」という「警報(感情を誤認したり、無視したり、そういった様々な心の嘘が脳内で発覚すると、脳は警告ともいえる電波のようなものを警報として脳内で鳴らします)」を鳴らすのです。
それによって、愛情は不安定なものという仕組みが発生します。つまり、(自覚しているしていないに関わらず)肉体と精神がそわそわしたような状態です。例えでいえば、自分が赤ちゃんだとしますよね。で、さみしくて恋しくてわんわん泣いているのに、毎回々乱暴にお母さんが抱っこしたら、かなしいし切ない…。でもって、案外、絶望する。簡単に言ったら、そんな感覚が終始流れているような状態ですよね。で、それって、とてつもなく不安になるでしょ。だからこそ、「バランスを取るための代理の保障」が要求される。そう、お母さんに嫌われていないのだという保障が必要になる。
で、ここで、ちょっとストップ。読解力のある人は、「そう、お母さんに嫌われていない……保障が必要になる」という部分で気がついたかもしれないけど、その保障事態が現実を逃避している根源だよね。
この根源から広がった状態ですが、まず、根源の誕生によって、大魔王の椅子と王と家来の椅子が誕生します。更に、そこに座る「必要性の理由」という「大魔王の椅子の掟」が出来ます。掟の存在価値を維持するにはは、感情のつじつまを合わせるために「こじつけ」という理由が必要になります。こじつけという行為を行なわないと、自分が守ろうとしている(隠すことを守り続けようとしている)なにかが破壊されてしまうのです。ま、これが根源から広がった何となくの状態ですね。
で、その大魔王の椅子に座るまでの椅子取りゲームのような様(こうあるべきという思い)が連続している瞬間を依存と言います。でもって、これをしている間というのは、(個人差で量の違いが有りますが)脳内で思考をブロックする電波が飛び交います。要は前文で説明した「警報」です。その警報の矛先は、「不安定な感情の根源」へも出ますが、「自覚(認知)に辿り着くまでの不都合な感情」を激しく麻痺させる作用もあります(本当は頭が痛いはずなのに、頭痛薬で痛くないという認知に変換されているような感じですね)。(で、その成分は? …すいません。勉強不足でございます)
麻痺した感情の意図は、当然、大魔王の椅子を最後まで確保しておくこと。そして、同時に「○○な自分を受け入れたら、○○になってしまう」という自己防護の成せる業でしょうね。これが転じて対極になった場合、「○○でなくてはいけない」、「○○であるべき」、となります。
だからといって、ああ、私はこじつけだけで生きているのねとか思わないで下さいね…。
ここまでの文章がおおまかに依存に関わることです。が、かなり略して表現しています。知っていることをそのままを書こうと思えば書けるけど、難しくしか書けません。なぜなら、専門用語と、自己知識(←霊感で見えている事柄)が連動していないので(単に勉強不足なんですが)、どうしても読みづらい内容になってしまってます。ご勘弁を。
で、殺気のお話をしますが、ま、簡単に言ってしまえば、前文で書いた「椅子取りゲームのような様(こうあるべきという思い)が連続している瞬間」の、この椅子に座るまでの瞬間瞬間が、殺気そのものを発しているのです。
(またに続く…)
ひとつの国がここに在った。その国には村人の他に、やり手のスペシャリストである王へ忠実な指揮官と、王がいた。
規律を守らない村人を王は厳しく対処した。村は乱れ、貧困のために殺人を犯す者さえあった。しかし、指揮官は、何もしなかった。なぜなら、王から指令が出るまでただただ沈黙を貫いたのだ。
幾ら統一しても、村人は殺人や窃盗をやめず、次第に酷くなるばかり…。そこで、王は規則を守れた者に褒美を授けた。名誉という形を評してみたのだ。
しかし、褒美の価値も分からぬ村人は、意味も無く「自由」が欲しいとのたまったのだ。
そこで国の使いでひとりの男が村人達から詳しく話を聞くこととなった。だけれども、その「自由の矛先」は、誰もが曖昧でピントがぼやけていたのだ。仕方なく、王の使いは城に戻り、事実を王に伝えた。
王は、王という地位を維持したままで、村人をどう統一させれば良いのかを思案した。
ある時、沈黙を頑なに守ってきたやり手のスペシャリストである指揮官が王に言った。
「城を出て、村人として暮らしましょう」
王は、怒りをあらわにし、怒り任せにその場で指揮官を即刻死刑にした。
王を支えるスペシャリストの存在が消え、王は孤独と国の財政の管理と王の任務という気負いを背負った。
気負いは、年々重みを増し、王の精神へと食い込んでいった。
そして、村人たちは王を尊敬する人間など誰一人存在せず、王への侮蔑さえ感じていたのだ。
王は、1番認めたくない侮蔑を感じた。感じる他に術が無いほど国は荒れていたのだ。王の心の中で葛藤が激しく在った。
王を慕えない愚かな村人たちよ…。と、村人への哀れみと下衆を見下す感情が溢れた自分と、何もかもを捨て王の座から逃げ出したいという自分の感情が、葛藤という名の乱戦を精神内で起こしたのだ。
心身共に疲れ果てていた王の精神は、何もかもが意味の無いものに感じ、逃げることを選んだ。そして、目的を見失った王は乞食へと堕落していった。
ある日、夢の中に神が現れた。
「お前がしたいことと出来ることは違うのだ」
「初めから何のために統一しなくてはいけないのかを明確にしていないから目的がずれるのだ」
神は、そう王へと言い残し夢から消えていった。
私は思うのだ、人間の心とは、ひとつの国なのかもしれない。そして、その国には王という気負いを充分に背負った存在を置くことで、本当の自分を巨大化し、ありのままの現実を極端に小さくしてみたり巨大な何かにしてみたりと、そんなことを無意識にしてしまっているのではないだろうか。
国があるなら、王が必要かもしれない。だとしても、自己を統一させるということは王が必要以上の鎧を身に纏う結果となる。ならば、王である自分は、村に棲息し自己の生き方を極めるべきなのだ。所詮、どのような素晴らしい人間がいても、全ての人間の心を統一させることは不可能なのだ。だからこそ、王は村人として村に住み、職人として生きて行けばいい。
その王の存在を助けるのが、努力を重ね精神の智を蓄えた指揮官という名の思考なのだと思う。
気負いは破滅を呼び、また、地位への執着は、現実を歪ませ幻想を見せる魔の境界なのかもしれない…。
人は考える生き物だよね。考えていないように見える人が居ても、生きている限り、感情と感情を処理する脳が稼働しているもの。
なぜ人間は形というシルエットに拘るのだろうか…。ありのままを受け入れることが大抵が困難だったりする。
例えば宗教なんかでもそう、我らの神に誠心誠意を込め祈りを捧げ、悪い気持ちや欲を持たずに暮らしていれば神があなたを救ってくれます。と、いったことが本当だとしたら、或いは、自分なりに信じることが出来たとしてたら、入信することでしょう。
また、好きな人がいて、どこの占い師に見てもらっても、彼はあなたを嫌いですよ。と、いわれ続け、たまたまあたった占い師に、彼はあなたを大好きよ。と、いわれたら、その占い師を信じることでしょう。
或いは、スピリチュアルのヒーラーに、あなたは神に選ばれた人間よ。と、いわれたら、喜びに満ち溢れてしまうかもしれない。
だけれどもね、今、あげた例の全ては「形があるように見えて、言葉としての区切り」でしかないのです。それだとしても、仮に宗教の教えがどうであれ、こうすることで極楽へ逝けると思える自分が居るから信者でいれるというのなら、それはそれで充分な理由だと思えるし、その意志は大切なこと。
また、占い師が「彼はあなたを大好きよ」といった言葉が大嘘であり、単に、一時しのぎであれ慰みとして言って欲しい存在が在ることが重要ならば、その占い師の存在は、その人にとって重要。
或いは、ヒーラーに神だと言われ、自分の存在価値を見出すことが出来、自分自身が気力が満ちた中に居ることを願うのであれば、嘘だとしても、自分とっては意味のある言葉になる。
そういった、其々の願う意識の空間に引き寄せられ棲息するのが人間の意識。そういった空間を私は否定はしない。生きる上で必要ならば、それが、その人にとっての(少なくとも、その瞬間、または、一定時間、或いは永続的に)本当の道なのだと思う。
人間は環境や社会という拘束は外せない。地位や名誉による悲しい拘束もある。
だけれども、人間が抱く精神世界は、無限大なのだと、そして、その精神の位置は自由なのだと、そう思います。
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