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(本文です)
amazarashiの反応は予想していた反応よりも強く響いたみたいですね。お礼や感想のコメントを(拍手ボタンから)もらいました。
まあでもあの歌詞はひびきますよね、確かにそうですよね。
生きるって一体なんなのとか
夫婦(恋人)ってなんなのとか
さみしさが埋まらないのはなんでなのとか
愛してもらえないのは?いつも孤独なのは?なぜなんだろうとか…
結局、人の気持ちって行き場が無いところまで追いつめられると自分の存在の意味と関連した部分を何かしら考えてしまうし、世界中を敵に回してしまったかのような感覚になるわけで。
でもここに味方がいるよって心の声を歌にしてエールを贈っているのだから、心の中に存在してる誰かの本気の生き様と共鳴してもちっともおかしくないはずです。
本気で生きるって上手下手じゃないんですよね。本気で生きてるという事実が全てでそれ以外の何物でもないんです。
本気で生きていると
本気で生きていない人よりも、本気で生きている人は衝突が多くなります。
知ろうとして知ってしまう。
理解しようとして理解してしまう。
納得しようとして納得してしまう。
それらがどんなに悲しく自分にとって辛いことだったとしても、気持ちの中へそれらの居場所を作ってあげてしまう。
それは大切にしたいナニカのためにそうしてしまう。
でも、居場所を守ってあげるためには時に戦わなきゃいけないこともある。
負けるとか勝つとかそういう勝敗に関係なく、立ち向かわなきゃいけないことがある。
泣きながら立ち向かわなきゃいけない時もある。
そういう時、誰かやナニカのせいにしてしまうとちょっとだけ気持ちが楽になるわけで。
てっとり早く誰かやナニカのせいにして怒りを丸投げしてしまえば良いわけですよね?
これは怒りの特徴的なものですが、怒りにはいわゆる尻に火をつけて動かす(行動を取らせる)事が出来る性質があります。
起爆剤のようなものですね。
※ 多くの人は怒りで動いていると自覚出来ない場合が多いです。
誰かやナニカに対し怒りを丸投げしている間は、辛いとか悲しいとかさみしいとかリアルに体感しなくて済むし、何よりも辛いとか悲しいとかさみしいとかの「生の感情を」見なくて済みます。
見えそうになると次々に行動をステップアップすることも可能です。実際、そういうケースが割合的に多いですし。
けれども起爆剤である怒りというのは、必ず効力を失います。
つまり怒りは永遠に続かないのです。
怒りが消えてしまった時に体感することというのは、辛いとか悲しいとかさみしいとかのリアルさです。それも起爆剤の効力が続いていた間に成長もしていますから、当時よりもより一層の深みを増しています。
怒りにより相手へ本当の意味で制裁を加えることは不可能なわけで、それをするとしたら法的にしかできないでしょうから。
仮に法的に制裁を加えることができたとしても、それが怒りの延長線上での制裁であったなら…
それでも辛いとか悲しいとかさみしいとかをリアルに体感しなくてはいけないのです。
結局、怒りを表現するために創意工夫をしたとしても、ただただ自爆するだけのものでしかなく。
つまり
噴水が勢いよく噴射しても、噴射した水が戻ってくるように、怒りを表現するという意味での原理も噴水と同じです。
感情とは人が人であるためのものだと思いますが、だからこそ慎重に扱わないといけない時もあるわけで。それに運命を支配しているのは感情だと言っても過言ではないです。
生かされている間は感情との共存が必要です。
本気で生きている人、本気でいきたいと思い生きようとしている人が、このブログを見にきつづけているのは知っています。
本気で生きているのを知っているからこそ尚更なんですが、自分の感情に流されて不本意な人生を歩いて欲しくないなと心からそう思ってます。
どんなに辛い時でも感情に流されないことを諦めずにいれば、道は開けるものです。
ただ、新たな道が最高か最低かは選択できないでしょうけど、気持ちに穢(けが)れはないです。
怒りによりわざわざ自分の中へ穢れを宿す必要も無いと思うし、自分から穢れを選び醜くなる必要も無いと思います。
また、諦めないことの辛さは人の意識レベル的に、私は誰もが同等の感覚を持っていると考えています。
そこは頭が良いとか悪いとか関与しない領域でもあるし、人生の成功者とか(言葉が悪いですが)敗北者とかも関与していない領域でもあります。
つまり諦めない気持ちにより未来が変化する可能性は、誰もが平等に持っていると考えています。
ゆえに辛い時こそ感情に流されないことを諦めないで生き抜いていって欲しいと思います。
[8回]