今日は真ん中の子の三者面談があった。だんなさんとふたりのこのこと中学校へ行ってきた。
娘は5月から不登校の子が通うための(学校内にある)部屋へ通っている。その部屋は3学年の女子だけが使用している。(娘の中学では、不登校の子が通えるように、男女別、学年ごとに部屋を設けてある)
三者面談の内容は(中3なので)当然受験と成績の話。でも、その前に、最近の娘の様子を担任(男性)が話をしてきた。担任は国語を担当しているのだけど、娘が授業を受けていないにも関わらず学期末試験の(国語だけは^^;)成績がかなり上がったということだった。そして、先日、「校長と面接」というのがあり、その時の言葉の対応が良かったと褒めていた。で、面談中に担任から質問をされ、それに娘は答えた。その答え方の中に「喜怒哀楽」という四字熟語を入れて娘が話をしたことに、とても感動したらしく、国語の実力がついてきたのだと豪語してくれた。
確かに中学生で喜怒哀楽など使わないかもしれないね。
けれど、そこに中学とか小学とかの年齢が言葉を表現するということに、関係があるのだろうか。別に、担任を否定するつもりではなく、そういった言葉とは環境により自然に形成されてしまう部分もあるとは思う。つまり、娘の場合、今までの環境で自然に身についた言葉の表現。当然、国語の基礎力という努力がなければ意味の無い言葉の表現になってしまうことは言うまでもない。
ところで、私は娘を事あるごとに連れまわす。やれ出張だ、鑑定だ、或いは友達と会う等。私が出かける時は必ず連れて行くことにしている。連れて歩く理由のひとつには、娘への懺悔から悔い改めた愛情を目的ともしているが、仕事に関しては別だ。仕事面では、勿論、娘の霊感の能力を私自身買っているし、呪術などを行なう場合は尚更、下手に、同業と行くよりも強力な助っ人として活躍してくれる。だから、仕事として連れて行くのだ。
話は戻るけど、国語の実力というものは、単に国語を勉強しただけでは、自分自身の血や肉にならないのではないかと思う。勉強をした上で、社会的に或いは人間関係上などのひとつのテーマを自分なりに持ち、実際の人間との何かしらの接触がないと血にも肉にもならないのではないかと、私は考えている。
だからと言って、私の子供は素晴らしいでしょ。という意味では決して無い。私が言いたいことは、子供であれ大人であれ、社会的に或いは人間関係上、(大人であれば、仕事上)というテーマを持つ事は大切なのではないかと思う。当然、持っただけでは意味が無いので実践しなくてはいけない。
つまり美味しいものだけを食べて運動をしなければ肥満になる。適度な運動は人間にとって必要だ。ということと、なんら変わりが無いように思える。
要は、勉強しただけでは宝の持ち腐れだけど、自己の表現という魅力を発するためには「テーマに沿った」実践が必要だと言う事。
あ、ちなみに娘にブログ記事を確認して貰ってからupしています。
[0回]