無意識の世界とは、霊感で捉えることのできる世界。そして、同様の世界を心理学、精神医学、或いは科学などなど、様々な分野から立証できる。
けれども、無意識の世界とは未だに未知の領域だ。
そして、最近、私は感じる。
霊感でどのくらいの位置まで、無意識に向かって降りていっているのだろうか…。と
また、同時に思うことがある。
無意識を知り得るということは、その範囲が科学的でも医学的だとしても、それらを発表してはいけないエリアが存在しているんじゃないかな…。と
肩こりはマッサージ師。足は足裏専門店へ。みたいな感じで、其々の専攻している分野というものがある。
それらは、おそらく、其々が同じ的に向かい研究の成果を発表したとしても、互いが互いの専門分野からしか立証ができないもの。ある意味、的の断片となっている一部分を、これが的(正解)である。と、言い合いをしているように感じるケースもあったりもする。それは専攻しているものが異なるのだから当然の結果だと思う。
無意識を知ることは大切だと、違和感のある心の闇へ適度な温度と適度な光が当たるのは大切だと、それはそれで感じてはいるけれど、果たして其れほどまでに大切で重要なことだろうか。
仮に、茎が曲がった植物があったとする。その茎を垂直に伸ばすことが、それほど重要だろうか。茎の曲がりは、この植物の価値を失うような問題となるのだろうか。
人は生まれた時から、いいや、命を宿した時から同等の天命を持った者も居ないし、肉体だとしても同じように居ない。双子だとしても、僅かながら環境によって変化していくもの。
食物で言えば素材だが、その素材の持ち味というのがある。
かぼちゃはぼこぼこしているから、かぼちゃだし。苺は赤くて甘いから苺だ。
それが、かぼちゃが苺みたいな形で売られていたら、真新しくて購入をするかもしれない。更に美味しければリピートもする。
けれども、所詮、かぼちゃはでこぼこしていて初めてかぼちゃなんだよね。
ほんでもって、形が変わったとしても、かぼちゃはかぼちゃ。
つまり、形が変わらなくてもかぼちゃだし、変わったとしてもかぼちゃだ。
それって、人間が品種改良をするから新発売のかぼちゃが誕生する。
もしも、かぼちゃが人間ならどう思うのだろうか。
隣りのかぼちゃは見事なくらい形がいい。けれども、ぼくは形が悪いから品種改良をしてもらいたい。
そう、思うかもしれない。
それはそれで、発想はかぼちゃの問題だから、なんの問題も無いことだし、発想は好きにやるべきだと思う。
じゃぁ、かぼちゃの精神状態を心理学者が分析しました。
かぼちゃは。小さい頃に鴉に突かれ、穴が開きました。そして、自分は出来の悪い野菜だと思っていました。更に精神科医が、出来の悪い野菜だと思うことで、かぼちゃの脳から麻薬成分を含んだホルモンが分泌され、それまでの恐怖感を感じなくさせていますよ。と
だから、こんな風なカウンセリングをしましょう。
そう言われたかぼちゃは、ぼくの頭はおかしくなったんだ。そう思いました。
なんて、物語があったとする。
それって、改善していく方向は正しいことだ。
けれども、この一部分だけが正しいことではないよね。
カウンセリングをかぼちゃが取り入れた。そして、規則正しい生活。軽い運動。趣味に…。と、様々な分野からのアプローチがある。けれども、どれも正解だけど、ひとつとして「単体のみで、本当に改善できることがないんじゃないか」と、考えているよ。
それにね、私は最近、特に思うのだけどさ。
人間とは生き続けている限り、好きなことを探せばいいんじゃないかな。と、思うんだよね。
好きなことって、何にも勝る「武器であり、守りなのだ」と、思うよ。
つまり、好きなこととは心の芯になる大切なこと。そして、芯を起点とし、その周りに様々な分野のアプローチがあり、やがて心身を改善していけるものだと思っている。
別に心に闇が在っても、毎日が地獄のようでも、自分なんだよ。
凄く楽しそうな人間が、自分と掛け離れているように見えたとしても、その人は、もしかしたら「本気」で生きていないかもしれないよね。好きなんだと思い込んでいることがあっても、本気で好きだと思えることが無いかもしれない。
私から言わせれば、この両者で、どっちが「貪欲なまでに、本当に好きなことを見つけることができるか」と考えた場合、楽しくない人間の方が見つける確率が高いと思うよ。
楽しくないというか、辛いと思える日々を送っている人間と言ったほうがしっくりくる。
だってさ、辛いのが好きな人っているかな。痛いのが好きとかは居そうだが…。辛いのが、となると、ほぼ居ないと思うんだよね。たまに妙な人間も居るから、それはそれで良いとして。
辛いってことは、その場に、その状況に、留まって居たくないという意味にも繋がるよね。
ということは、どうにかしたいと思っているわけだ。
ほいでもって、それでも、そこに居る。或いは居るしかない。とか、何らかの事情で動けない人間も居るはず。
現状を大きく変えることは、ひとりでは無理だ。当たり前だよね。ひとりの力なんて、たかが知れている。
だからこそ、見つければいい。
ひとりでも楽しめる「好きなこと」を。
その好きなことは、今よりも、ちょっぴりだけ楽になるくらいで丁度いい。
辛い気持ちの中で、存分に楽しむことだけが好きなことではないと思うし、辛い時は好きなことも霧がかかったように霞んで感じるものだと思うよ。
過去がどうあれ、今がどうあれ、生きているのは今のこの瞬間だ。過去の傷は確かにでかい。でかいとしても、無意識の闇を痛みをがまんしてまで、こじ開ける必要も無いよ。
好きなことをするということは、心に太陽が昇るのと同じなんだ。
痛んだ古傷を皮膚を切り裂き、わざわざ開ける必要は無いよ。体の外から太陽を当ててもいいけど、中々、闇にまで到達なんかしないもんだ。
だったら、なんでもいいから、気になる物から手をつければいい。三日坊主だとしてもいいじゃない。だって、好きなものを見つけている最中だもの、飽きるということは今の自分は、その事柄に対して魅力を感じなかったという事でしょ。本当に魅力を感じれば、忘れ去ることなんて出来やしない。男女の関係と一緒だよ。
心の中に自分だけの太陽を見つけよう。
みっつも、よっつも、たくさん太陽があってもいいのだ。
明るくて、暖かくて、気持ち良さそうだ。あ、でも、ちょっと熱いかもしれないね。
ちなみに、かぼちゃで言うなれば、形の悪いかぼちゃを一流シェフは使わないかもしれない。けれども、心まで温かくしてくれるお母さんの手料理なら、最高の料理をしてくれるだろう。たぶん。
それが、かぼちゃが太陽になった瞬間なのかもしれない。
闇は太陽があるからこそ、闇の美しさが際立つものだ。
私はそう信じて疑わないね。
太陽が照り付ければ照り付けるほどに、闇は美しく自分の魅力としてかえるものだと、そう思うよ。
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