白月光
今繋がっているあなたに贈る言葉|呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

あなたは本当の自分で生きてますか?

「腹の底からホッとしたい」そんなあなたに贈る言葉

涙はどうして流れるのだろう。

体から滲み出る涙は、魂の声。

自分が悲しいときも嬉しい時も驚いた時も、涙は出る。

女の人はよく泣くからストレスが溜まりづらい。と、どこかで耳にしたことがある。私も例外ではなく、やはり何かの拍子に涙が流れる。別に感情が高ぶっていなくても、泣くことがあって、どうしてこのタイミングで涙が流れてくるの?と、自分でも、変なの。と、感じることもある。

私が日々感じている涙とは、魂からのメッセージではないのか。と、考えている。心のわだかまりや心の矛盾を自分が自分へ訴えている、また、伝える手段。なんとなく、涙の役割とはそんな気がする。

ところで、涙を流さない人も居たりする。こういうのって、単に泣き虫か泣き虫じゃないかということなのだと思うし、それまでの環境も関連していたりもすると思っている。
それだとしても、涙が出ないというのは人間らしくない。というイメージも多くの人間が持つ思いなのかもしれない。


さて、最近、よく感じることがあるのだけど、人は感情への刺激が無いと脳が麻痺してくるのじゃないか。と、思っているんだよ。よく、楽しいのか嬉しいのか悲しいのか、自分で自分の気持ちが分からない。そういう相談をされることがある。ま、そういう悩みを抱く人間が多いのかもしれないね。
でね、これって、例えば感動するような何か(映画とか、その他色々ね)を体験したとしても、そういう状態の時は感情が受け付けなくて、感じている通りに涙がでなかったりもする。つまり、悲しくもないのにボロボロと涙が零れてくるという意味だよ。だからといって、これでもか、これでもか、と、たくさんの涙を誘う状況を取り入れたところで同じ結果になってしまうはず。

この状況になるまでほって置かれた自分がかわいそうだ。

まずは、そうなる以前に適度に気分転換でストレスを発散できれば、何よりなんだろうけど…。人は機械じゃないから、一定量のストレスが溜まったから発散しましょう。とは、いくわけがない。大抵は、落ちてしまってから、ああ、やってしまった。という感じなんじゃないかな。

私は思うのだけど、そういった状況になったら、規則正しいまともな生活をするしかないと思うのね。けれども、そこまで落ちていないのなら、感じる自分を、感じている自分を、気づいてあげる作業が必要なんじゃないかと思うんだよ。

例えばさ、漫画なんかでもいいし、ドラマとかでもいいんだけど、
「こんなこと言っているけど、本当は、こうしたいんじゃないかな…」
なんて、感じる時が無い?! 

その場面を把握しつつも、もどかしくて、
「どうしてここで言わないの~」
とかさ。そういう感覚って誰しもがあると思うの。

でね、それを自分の心の中で展開していく。この、自分の中で展開していくことこそが、「感じている、感じた、そういう自分に気づいてあげる作業」になる。
自分の中でのドラマのような、或いは、解説者のような、または、評論家でもいい。そういう役割を自分の中に僅かな時間でもいいから持つようにする。
そうやって、地道なことを続けていくことで、何れ、自分の気持ちに深みが出てくる。というか、もともとの深みのある自分を把握できると言った方が正しいかな。

簡単に言ってしまえば、そういった作業の習慣化は、自己を客観視していくという意味にも通じていく。何か動揺するようなことが起こったとしても、案外冷静に取り組めたりもするし。また、冷静すぎた人は、感情の感覚が戻ってくるから人間味が増すよね。もともとの冷静さが自分の人間性を良い意味で成長させてくれると思うよ。

感じることは誰でもできる。ただ、こんな風に感じたという認識に欠けていたりする。
それだとしても、人間の体は感じるようにつくられているものだよ。

だからこそ、感じることを本来の状態に戻してあげること。

それは、魂にとって、とても嬉しいこと。そして、生命エネルギーの強化にもイコールになる。


自己を愛し、労わること。把握という、他愛も無いことで、できてしまったりする。


自分が感じたことを把握するということは、
自分が「今よりも少しだけ楽になる」ための自分へのプレゼントだよ。

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あなたに届きますように

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記事内の参考画像「00」http://pon00.fc2web.com/00/00.html


人間の活力とは漲り吹き上がるもの

生きることへの希望が 我が命に火を注ぐ

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活力を存分に発揮しようと 
ただ 我武者羅に必死になる





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なにをそんなになっているの……
疲れてしまうよ
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目を開けよう きっと きっと 何かが見える




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「愛するということ」への補足記事

前回の記事のままだと混乱を招くかも…。と、思ったので、ちょっとばかり補足のつもりで書き足しておきます。

まず、あの記事を読みきった後に思うであろうと予測するのが、「自分だけがよければ良いのか」という、ある種、エゴイズムな考えなのではないか。と、人によっては感じるのではないでしょうか。
それはそれで、ある一定の条件を揃えてしまえば、真実ともいえる。けれども、真実とは本当のこととは違う。

ここで言う本当のこととは少なくとも私の中での本当のこと。

じゃぁ、本題。
例えば、誰かのためにこれをしたい。という気持ちがある。その気持ちを噛み砕いていったら、またしても「誰かのため」という考えが残るのだろうか。

じゃぁ、仮に残ったとしよう。その残った考えは、もうそれ以上、噛み砕くことができないのだろうか。
ひょっとしたら、案外、とっても簡単なことを見落としていたりして気がついていないのではないか。ということも考えられる。
なぜなら、人間(その他の生物もかもしれないが)の脳は、様々な物事の結果をフォルダのような状態で分類されている。分類されたそれを必要な時に引き出し、新たな情報と照らし合わせ、どのフォルダへ分類するのかを決定する。
決定を下すことと、決定までの過程は、自分が人生の中で培ってきた「思考癖」により選択されている。
つまり、自分が今までどれだけ有効的な思考を取り入れてきたかという事実に基づき、脳が動いているということだよね。

で、話を戻すけど。
「誰かのために」
ではなくて、ひょっとしたら、

その人が悲しむのを見ている自分が悲しい。

ということもありでしょ。

自分がどれだけその人を欲する想いがあるのかどうか。その自分の中の事実を把握したとしたら、誰かのためにというのは存在しなくて、自分がそうしたいから。と、なるよね。
突き詰めていくと正しいとか正しくないとか、そういう様々な、思想や哲学の話になってしまうかもしれない。
けれどもね、思想も哲学も本当のことなのかとなるとそれは違うわけで。
本当のことっていうのは、思想とか哲学とかとは違う。もっと別次元にあるものなんじゃないかな。と、思うの。

ま、だとしても、この世の愛の全てを見て、全てを知る。そんなことは無理に決まっている。出来るとしたら、この世の同じ人間が感じる「感情の細やかなひとつひとつ」を自己の中に見出し、突き詰めていくしかないのでは。と、思う。
何かを突き詰めていくということは、もしかしたら、たくさんを追ったとしても何れひとつに取り組むことではないのかな。なんて思うのですよ。


そして、補足の記事に再度補足するとしたら、自分ができうる事柄をセーブして、より完璧にしていく。ということ。
10あるものを10行なうのではなく、例えば、10あるのなら6だけを真剣に行なう。すると、精神の余裕と肉体の余裕が現れ、無茶をした時に発生する無意味なストレスは自動的に消滅する。しかも、10の内の6だからこそ、実践した行為は完璧になっていく。
そんなふうに、先を捉えていくと、自分の能力を超えた意味の無い行為が目立つ。けれども、意味の無いものなんてこの世に存在はしていないと思うのだけどね。
つまり、やりたいことと、できることは違うということ。


最後に、補足が更なる混乱を生み出したかもしれませんが、その時はごめんなさい。

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感じるという全ての感覚

この世とは何だろう。実際、本当に存在しているのはなんなのだろう。
人間とは、生物とは、何者なのか。

ちょっと前まで拘っていたこと。拘っていたというと可笑しいけど。なんというか、頭の片隅にいつも小っちゃくなって座っていたヤツたち。

今の私の頭の中で、ヤツらは凍結されている。
その代わりに別なヤツが呼吸しているよ。


時々ね、私は考えすぎなのか。と、思うことが一瞬だけどあるんだよ。でもね、それって違ってて、霊感のせいなんだよね。霊感っていうのは基本的にその生命体の「感じる感覚の全て」が鋭くなっている。それも、最初からそういう風に設定されている。


感じることに限界というものは無く、その感覚に伴い、霊感は並行している。
感じることを辞めてしまうということは、私の中では、己の生命の死を連想する。
ただ、死しても尚も感じることが鳴り止むわけではない。
そのふたつの事柄の大きな差は、感じたことを処理する「脳」があり、いかに深く繊細にそれらの脳を使い込めるかどうかということと、全く持って脳が使えないかということなのだと思うよ。
だからこそ、命が大切なのだと思えるしね。

感じるという全ての感覚、そこから生まれたひとつひとつの思いが何者なのか、という無謀な探求をずっとずっと続けていこうと思うよ。
それは何のためになのか――。
自分を知るため。そして、知った分だけ人を知るため。

だって、本当に守りたい人間を守れなくなるでしょ。
悲しむ自分が辛いんだよね。

だから、そうしているんだよ。

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真心に包まれて…

良い意味で霊感があることをありがたいと思うことがあります。
ブログの記事を読んで直ぐに(私の異変を)察知してしまう人も居るし、なにも見ていなくとも感じてくれる人。そういうことが、辛い時ほど混じりの無い真心として私の胸を直撃します。そんな時ですよ、霊感があることに感謝してしまうのは。

思われただけじゃ「辛いことや苦しいこと」は何も変わらないしどうにもならない。だとしても、私のもとに念として飛んでくる真心に触れると、時として嬉しすぎて、勿体無くて涙が出そうになることがある。私はこんなに心配されて見守られて幸せだなと思うし、思われたことを無駄にしないで必ず何かの形(その人へ直接じゃなかったとしても、思ってくれている本当の意味での何か)で必ず表現しよう。そう、思い、自分への誓いをたてます。

私もただの人間なので、平常心に乱れが生じバランスが崩れてしまうことがあります。そして、そういう時でも仕事中は、全神経を集中して一切の乱れを無にしています。けれども、仕事から解放されれば当然もとのバランスに戻します。
こういう行為に対し、別段、違和感は無い。仕事だとはいえ、偉いと褒められたり慰められたりするけれども、その辺は、並々ならぬ仕事への責任とプライドが感情の割合を大きく占めているからだと、自分で納得しています。

だとしても、ふと、仕事が終わり、どうしようもなくいじけてしまうことがある。
自分の人間としての価値を疑いたくなるし、実際、疑うこともあるの。

……どうして、こういう記事を書いたのかというとね(書いた理由のひとつとしてですが)、私と接点も無い(あるひとりの)人間が、私を応援してくれている気持ちが届くからなのです。真心が届く。
自分の知り合いや友人、家族など、私の大切な人間が心配してくれたり真心を送ってくれたり(←霊感で感じる)することでさえ、とても嬉しいのに…。その人は、私にエールを送り続けてくれている。
私は、この場を借りてお礼を言いたいのです。きっと、その人は、私がいじけてしまう瞬間を察知しているのだと思う。そして、その人は、霊感を持っているだろうし、占いの仕事をしていてもおかしくはないはず。
その人から「辛いよね」と言われたような、そんな気持ちになる真心が飛んできます。私は、その真心に触れるとホッとします。だって、その辛いよねは、上辺だけを見ていった言葉じゃないもの。だからこそ、真心が腹の底まで届いていますよ…。
それとですね、私にはお姉ちゃんもお兄ちゃんもいないのだけど、お姉ちゃんに言われているような、そんな肉親的な情をその人からは感じています……。

なんだか…しんみりした記事になりすぎたかもしれない。だとしても嬉しくてありがたくて勿体無くて…。たくさんの真心を貰えたことが本当に嬉しくて書かせてもらいました。
私の大切な人たちへも、私と接点の無い誰かさんへも、そして勿論、このブログを愛読してくれている人たちへも、言葉として贈りたいと思い書きました。
ひとりではさみしくて生きていけないな。と、しみじみ思いますよ。ほんとに。


ハルカ

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オヤジの背中と般若の面と娘の嫁入りと

月夜に照らされた般若の面が、ほのかに青白く浮き立った。
月夜にぼんやりと映るその面は、腹いっぱいの笑いと明朗快活な気性を隠し持っているようにも見える。
陰(イン)の陰りが微塵も無いからこそ、より不気味さが滲み出ているのかもしれない。

手作りの般若面には技術者の命が吹き込まれ、新しい生命がこの世に贈り出されていく。

お前たち幸せになるんだよ。可愛がってもらえよ。

そう、心の中で念じ、世に贈り出す。

丁寧に包装された面は、我が子を嫁がせる気分と似ているのかもしれない。


面には魔力が宿る。そういった古代からの言い伝えがある。
日本刀も魔力が宿る。

それらの品々は命を削りこんだ作品たち。
それ故、つくりあげていく工程は子供の成長に値するのかもしれない。

時には投げ出したくなり、

時には目に入れても痛くないと思えるほどに愛情を持ち、

どうして俺の心を理解できないのだと無理強いしてみたくなったり、

そうした心の底から飛び出してくる叫びが、短くとも歴史になり、何れ、たわわに実った果実のように熟れていく。

熟れた果実を見つつ、そろそろ、嫁に出さないと…。そう、ポツリと考える。

嬉しいはずなのに、なんでだか、さみしさだけがあばら骨を通り抜けていく。まるで隙間風の出入りする屋敷のように。


私は女だから、父親には到底なれやしない。
だから、娘を嫁がせる父親の本心を腹いっぱいに知ることは不可能だ。
この世で娘を嫁がせた父親が、どれだけさみしい思いをしたのだろうと考えることがある。

男の人は、今も昔もプライドの生き物だとよく聞く。
実際、本当だなとも思う。

本当は娘に優しくしてあげたくて、優しい言葉を掛けてあげたくて――、
だけれども、口からついて出た言葉が、憎まれ口に姿を変えてしまうことがある。
言われた当の本人(娘)は、ちっとも優しくないし、思いやりの欠片さえも感じていなかったりする。
終いには、嫌味を言ってんのか、ケンカしたいなら買うぞ。といった冷たい反応をされたりもする(つか普通はしないよね。そんなことしたのは私ぐらいかも…)。
それだとしても、かわいいと思う気持ちも、優しい気持ちも、何ひとつ変わらずに、必死で言葉を続けている。
目の前の娘の目から涙が零れ落ちる。途端に、頭の中は大混乱。

ただ、ただ、かわいらしかっただけなのに。
ただ、ただ、一生懸命に優しくしたかっただけなのに。



父親が娘を嫁がせるということは、オヤジのけじめなのかもしれない。


俺の脚で良かったら持って行っていいぞと豪快に笑いながら言ってしまいそうだと感じる。


父の愛。
男の愛。
それは母とは違って、
女とは違って、

とてもでっかいなと感じます。

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koi

藤田麻衣子「恋に落ちて」


http://jp.youtube.com/watch?v=icYAlge7cxY


藤田麻衣子「会いたい」―恋愛の話「運転席」―


http://jp.youtube.com/watch?v=R-rUwhDBxZg

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言葉じゃないと伝わらないものがある

【コピペ】妻に愛してるといってみた【2ちゃんねる】



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プロフィール

HN:
軒龍卑(haruka)
年齢:
54
性別:
女性
誕生日:
1969/11/01
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
占い・読書(ほぼ仕事の本)・ガーデニング・その他諸々
軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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