白月光
心理|呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

あなたは本当の自分で生きてますか?

渡り鳥と帰る場所

d68b4de7.jpgどこに向かい
どこへ行くのか

戻る場所があり
戻る場所でもなく

本能に従い移動する



鳥は鳥だから美しく
ツバメはツバメだから美しい

戻る場所があるということは 隷属でもある
捕らえ方の問題だが 無条件の拘束なのかもれない
支配は隷属を生み続け依存心を刺激する
依存に苦しむこともあれば 依存することに陶酔する者もいる
孤独を覆い隠す支配と 孤独を覆い隠す依存は 渡り鳥のようだ

戻る場所があり
戻る場所でもなく
固定した安堵は 孤独への恐怖とリンクし
故に 不安定なバランスを望むのだろう

鳥が鳥でいるから美しく
ツバメはツバメだから美しい

行動により制御された感情は 渡り鳥のように 永住の地を無くす
孤独と言う名の恐怖を気負う者は 渡り鳥のように 戻る場所でもなくなる

不安定の安定を渇望するさまは 人間の構造の証しなのであろうか

腹の底から渇望された殺気立った気持ちは 其々が 渡り鳥なのかもしれない

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鏡の中の住人

無意識の世界という表現をすると、文章が硬くなる気がする。うん、今から書こうと考えていることがうまく伝わらなくなる。そんな気がするから、無意識の世界という言葉じゃなく、心の鏡と表現しよう。ま、ちなみに、方向を変えれば脳機能と認知といったお話もできてしまうような、そんな内容。
何はともあれ、読んでみてください。

心の鏡、それは心理学の影とかシャドーとかそういった小面倒臭いことを言いたいわけじゃない。

あの人は、俺をばかにする。
あの人は、俺を見下す。
とても冷たい目をしたアイツの目つき。
ずっと、ずっと、子供の頃から耐え抜いた母の目。
どうしたら、あんな仕打ちができるのか。
どんなに好きでいたいと思っても、冷血な母には届かぬ、俺の気持ち。

相手が母じゃなくとも、こんな風に、かなしく切ない思いを経験したことはないだろうか。
冷血な態度に打ちのめされ、自分の心が萎縮していく。大人になり、変わりたいなら自分で変えるしかないと、そう決心して変わろうとする。
だけれども、人間の心は、いとも簡単に決心を鈍らせ、やる気を奪うのだ。

なぜだ。自分が甘いからか…。ならば、その精神が崩れないように強化する必要がある。
そう思い、知識に貪りつく。
けれども、心の芯から欲した知識ではないから、頭の肥やしになり果てた。
つまり、知識は心と連動せず、単独の知識として活かされたのだ。
本当の知とは心と知識が連動するものだと思うのだ。

人は、苦悩する。しかし、その苦悩とは何者なのだろう。

我が心が生み出すものではないのだろうか…。

仮に母が冷血だったとしても、例えようの無い仕打ちをしたとしても、それは自分の心がそう思い込んだだけではないのだろうか。いいや、そんなことはない。そう思ったとしても、完璧に見解は正しいのだと言えるのだろうか。
こういう状態を「思い込み」。うん。そうとも言う。
でもね、自分の心の姿を母に映しているだけとか? そんなことは無いかな。
心で育てた、心の歪んだ自分が、世の中を歪めて見ていない……?

自分が小学校だった頃。その当時に戻れたとする。で、戻ったとして、今の自分を見る。

がっかりさせんなよ……。

って、子供の時の自分が、今の自分を見て、かなしむかもしれない。

そして、子供の自分は、こうも言うかもしれない。今の俺は、できるか、できないか、なんて考えちゃいない。ただ、できないから頑張ってサッカーのドリブルをやっているんだ。それなのに、今のお前はなんだ。こんなに一生懸命にやってきた俺を見捨てるのか。
と、言うかもしれない……。

心を何かに囚われる。囚われすぎると他が何も見えなくなる。小さなものまで、巨大な壁として捉えているのかもしれない。それらは、我が心が生み出す意識。この意識とは、自分の思い込みだったりもする。
故に、この自分は、鏡の世界に住み着いてしまう。意識の世界は現実と混合し、自分の視野の終りには鏡で仕切りを作る。

醜くなった心は自分なのに、アイツが醜いと、鏡を眺めながら言う。
それらの感覚は虚像。作られたイメージだったりもする。
だからこそ、大人になった自分が、ガキのころの自分をかなしませちゃいけないのかもしれない。

人間が人間として生きていくことは難しいものだと思う。

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本当のことを見抜く筋肉

物事の中心とは、常に不動のもの。そして、良いとか、悪いとか、そういった判断は本当のことの「ある側面」を示している。故に、それらを思想や固定観念、或いは、思っていること(個人の考え)。といった、そんなジャンルに分けられるものなのだと思う。そういったジャンルは物事の中心を球体とした場合、球体に依存する無数に刺さった針なのではないだろうか。

本当のことというのは、誰かが素晴らしい思想を述べたとしても、何も変わらない。この世の人間が、その本当のことを誰一人として知らなくとも、本当のこととは唯一ひとつだけなのだ。

例えば、先日も記事としてあげたけれど、精神科医が何々という病名を患者に対し判断したとする。その判断は「正しい」のだ。だけれども、正しいというだけで、本当のことではない。
仮に、ウツになってしまった人間が家族に居たとする。で、自分がウツだったとする。病院へ行ってウツだと言われたのだからウツなのだ。
じゃぁ、自分以外の家族がウツを勉強した。熱心に取り組んだ。その末に、ウツと言う症状を理解した。

そこで、少し考えてみる。これらの全体を遠くから眺めてみたとする。
ウツという症状は、学んだ知識の中に該当している。だけれども、普段の生活はどうだろうか…。
症状というものから切り離して物事を考えてみる。
すると、どうだろう。行動や行為、或いは言動、そんなものの繰り返しというだけだよね。
それらの行動などが集結してウツと言われているだけだ。

じゃぁ、この行動を見ている家族の中に、こんなことを考えている者はいないだろうか。
ウツの家族に対し、「この、(ウツの家族以外の家族が、或いは、ウツになってしまった家族が)何々という行為が(ウツの家族に対し)悪循環を招いている原因ではないのか」と…。

私は、それが本当のことだと思うのだ。
そして、不動のことだと思えるのだ。

確かに、ウツという症状は、ウツになった本人の感情の捉え方の問題に起因している。それに、家族にもウツがいる場合も多い。ウツは、ウツになった人間の「ウツになった切欠がどんなものだったのかを理解できれば治っていく」と、言われている。
でもね、それって、死ぬまで分からないかもしれない。だからこそ、医者の提示するお薬が必要だ。
だとしても、今の連続で繋がっている、その本当のことが理解できれば、循環していくものだよ。当然、根源に対しアプローチしていくのだから、的を得ていれば改善もしていくはず。

ところで最近の私は、本当のこととは、なんなのか。そんなポイントで様々な物事を捉える機会が多くなっている。そういった観点で物事を捉えるというのは、筋肉と同じで、鍛えていくものじゃないのかなとも思うのだ。
やはり、精神を鍛えるという言葉があるように、心にも鍛えるべく筋肉が存在しているのだと、そう思うよ。

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心の中の幾万通りの顔

心の顔はいかようにも変化する。そして、幾万通りもの顔を持っていることだろう。
中には、生涯で、たった一度しか顔をださない自分もいるはずだ。

でさ、そのいかようにも変化する顔は、どれもが自分自身なのだろうか…。

医学の分野でこんなことを質問すれば多重人格とか何かしらの症状名をつけられてしまう気もする。ま、だからといって、多重人格の話をしたい訳じゃない。一般に。多くの。そういう広い意味での心の顔。そういう基準からお話をしたいだけ。

が、しかし……だとしても、どんな風だったとしても、人間は皆が皆、おかしいのだ。

なぜなら、正常な人間とは、どんな人間だろうか。ひとことで言うと何?!

精神科医が正常と認めた者は正常なのか。じゃぁ、精神科医が正常と認める基準は、今の世の中の「常識」が多くを占めてはいないだろうか。時代が違えば、正常と異常の判断が異なるということもあるはず。
今、この場で、正常だと判断したとする。じゃぁ、そのまま100年後に瞬間移動できたとするよね。それで、精神科医が異常です。と、判断をするかもしれない。
つまり、病名も症状名も人間がライン引きをして、ここからここまでは何々という病気です。それ未満は何々です。と、名称をつけているだけ。100年後に新たな症状名が見つかったとしたら、今のこの地点で分かっていないというだけで、実際は症状名があるということ。
で、話はまた戻るけど、人は皆、おかしいと思うんだよね。どこか壊れているのが人間だと思うのだ。完璧な細胞を持つ人間なんているのだろうか…。だって、もしも存在するとしたら「優勢遺伝子のみ」の人間が存在するといっているようなものだと思うのだ。ハッキリ言って、人間には正常なんて無いと思うんだ。ま、専門家が読んだら、その予想(妄想)は、全く論外です。とか、言われてしまいそうだけど、結構、これについては自信があるね。


さて、言い切ってしまったところで、次の話に進めていくよ。

冒頭で書いた、幾万通りもの顔。
この顔は、絵で描いたら、体がひとつで首から上に幾つもの顔があるような、そんなイメージかもしれない。
でもね、その奇妙な生き物は誰の体にも住みついていて、時々、顔がぐにゃぐにゃと変化していく。そう、優しいおばあさんが鬼みたいな顔になったり。そんな感じかな。

この幾万通りもの顔は、自分が自分の中に居なくなると増えるんだよ。
ま、自分と、幾万通りもの生き物がいる。そんなイメージ。
けれどもね、本当は数個しか顔なんて無いんだ。
肉体という名のポケットに出入りできる自分が居て、ほいで、その自分が何かの拍子に現実逃避をする。
すると、一気に顔の暴走が始まり、好き勝手に、思い思いの言葉や感情をぶつけてくる。
ぶつける先は肉体。運動神経だったり、感情の神経だったり、時には分泌物とか。ま、体の中なら何でも在り。
そんな感じで、暴走する顔たち。

で、自分は何処にいったのかって? うん。自分は顔たちの居る直ぐ傍で、顔たちの影に成り切って凍結している。そう、感情を停止するの。
それだとしても、人間は感情を止めることが出来ない。感じていない人でも、無意識という世界の中でしっかりと感じているし、案外、認識できないだけで実は感じています(←認知の問題ね)。なんてこともある。
その止まったままの自分の代わりに、顔たちはいっせいに暴れだす。

すると、自分は影になって固まっているから、聞こえないし、感じない。

それでもね、神経という伝達経路を伝って、感情の代わりに声を伝えてくる。と、同時に、何故か胸とか胃の辺りがもやもやする。

このもやもやは、自分自身に嘘をついたり、あるいは、逃げているのに逃げていないよ。と、自分を正当化してみたり、要は、自分を騙している、誤魔化している。そんな時の状態なんだよ。

こんな時の対処法。うーん。人にもよるから、コレだよ。とは、言えない。
だとしてもさ、自分が、自分と話し合う良い機会だということには違いないね。
たまには、そんな時間の過ごし方も素敵だと思うよ。

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けものの自分と人間の自分

けものの自分と人の自分。ふたつも、みっつも、寄せ集まり自分が居る。

どれが本当の自分なの…。

果たして本当の自分など何処に居るのだ。

けものは、本能の赴くままに我が身をひるがえし、無謀な要求を我が肉体に命じてくる。
そして、人の自分は、醜く傲慢な欲を持つけものを毛嫌い、心の闇という檻の中に仕舞い込む。
それでも、けものは欲望のピークになると、あっさりと檻を蹴散らし這い出てくるのだ。

なんのために?

ぼくは、人間である「ぼく」に、自問自答してみた。

本当は、その欲を叶えたいからに決まっている。

じゃぁ、どうして、ぼくはけものを檻に仕舞い込む必要がある…?

だって、みんなに嫌われるじゃん。

……嫌われる? 嫌われたら何か困るの?

そりゃぁ、困るよ。

どんな風に?

…………。

なにも答えが言えないんだね。それなのに、どうして、檻に入れるなんて言えるの? そんなのおかしいよ。

だって、本能を剥き出しにしたら、犯罪者になってしまうし、まともに生きて行けない。

だったら、どうなりたいから、檻に入れているの? まともって、なに。

まともは、まともだ。普通ってことだよ。

そう、まともってことは良い人になりたい訳じゃないんだね。まともってこと自体、当たらず触らず、適度な距離を保ち、腹の中が黒くても表面上が正しければ「まとも」なんだ。
ってことはさ、普通なんてのも、適当に言っている証拠だ。普通なんて基準は無いんだから。
だったら、きみは、ただ、目立たず生きていきたいって思っているということだよね。

……。

ほら、常に何に対しても適当で、しっかり考えてないから、やっていることと考えていることがバラバラでしょ。
結局、自分がどうしたいか分かっていない。

……。


けものは、闇に封印すればするほどに、這い出たときの反動が強烈だ。
だって、そっちがまんまの自分だから仕方が無い。

故に、そのまんまの自分を恐れる無かれ。
勇者の血が流れているけものをおそれる無かれ。

けものは、けものとして生きるからこそ輝くもの。
人間としての自分が、けものの自分と本気で向き合った末に、人間の知恵と精神により、けものを調教していくもの。

だとしても、けものはけもの成り。

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人間の本心についてふと思ったこと

この世に凄い人は幾らでも居る。
お隣さんも、もしかしたら凄い人かもしれないし、自分よりも凄い人はたくさんいると思うのだ。

なんとなく、今日、気がついたこと。

例えば、医者がいたとする。しかも、その医者は、たくさんの患者が世界中から集まるような凄い人だったとする。
その医者は、家庭も円満で(それだけ凄いと、あんまり家に居る時間は少ないだろうけど)、子供も優秀で、医者として社会的にも認められている、そんな素晴らしい人間(医者)が居たとする。

で、仮に、その医者が何かの事情により、貧乏ついでに借金大魔王になってしまった。
奥さんは、お金のあるうちに慰謝料を貰い別れようと考えた。
医者の部下は、今までお世話になりました。と言ってお金の無い医者から去っていく。
当然、社会的な信用はがた落ちだ。

この状況ってさ、金が無くなったから起こったことではなく、それまでの人間関係がお金で保たれていただけで、もともとの状態が表面化しただけだとも言える。
そんなものなのか、とも思うが、悲しくも切なくもそんなものなのだ……。

人間の精神性とは、世のハリボテではまかない切れないものだと、何となく本日は感じました。

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子供の目は世の本当だ

子供の脳は、思ったように機能してくれないもの。脳機能が発達過程にあり、大人みたいにきれいな理解を示せないのが子供というもの。

子供の脳の仕組みを例えるのなら、取説を無視して何かを組み上げていくようなもの。
大人の脳の仕組みは、取説を見ながら順序良く作業をし、応用を用いて組み上げる。そんなふうに、大人と子供とでは違いがあると思う。

それに、大人と子供とでは、仕上がりが全く異なる。

仮に、子供がカラーボックスを作らなくちゃいけない。となった場合、仕上がった品物はカラーボックスとは程遠いものが出来上がることだろう…。その点、大人は器用、不器用の差は出たとしても、カラーボックスを作ったのか…。と、理解してもらえるものが出来上がることだろう。

だからこそ、子供の「想像力」を育てよう。と、みなが言うのもうなずける気もする。

子供が大人に本当のことを言えない。それは、うちの子供がお年頃だからぁ…(。・ω・。)
なんて考えていると、落とし穴に落ちることがある。
だって、子供が本当のことを言えない理由は簡単なことだ。そいつを信用していないから。
その場合、子供の友達がとかは、どうでも良くて。大人が相手の場合、単に、コイツに言っても仕方が無い。そう思っている以外の何者でもない。

どうして、そんな風に思うのかというと、自分が子供の時に本当のことを言えた大人って、
自分が「このおじさん(おばさん)は、他の大人たちとは違う」と、
そう認めたヤツだけじゃなかっただろうか。

子供に「コイツに言ったって仕方ない…」そんな風に思われてしまう大人――、

う~ん。かっこ悪いわな…。

仮に、正しいことを淡々と並べ立てたとしても、子供は、その空間から抜け出したいだけだ。お利口さんは、どうすれば親が機嫌が良くなるのかを熟知している。だから、ごめんなさい。といって、反省のポーズを取るのが得意だったりする。ま、だとしても、本当に心から反省していることもあるだろうけどね。
つまり、子供からしたら、子供というだけで大人に勝てない。だから、負けておく。だけれども、自分よりも下。そんな風にばかにされていたりすることもある。勿論、同じ人間としてばかだと思われているということだよね。

淡々と注意したところで何も聞いてない。
そんな子供が身近に居るとしたら、いつものポイントでいつものことを言わなきゃいいだけだよね。
その瞬間、子供は、あれ?と感じる。そのあれ?の連続が子供からしたらツボに入って、反省しなきゃいけないことを考えるかもしれない。ま、あくまでも「かもしれない」としか言えないけど。

子供って、大人の思考パターンから考えても理解できない。子供を理解したいのなら、自分が抱えている「親の仮面」、「大人の仮面」、「仕事としての地位や名誉の醜い仮面」、「母(父)という名の仮面」など、そういうものを剥ぎ取り改めて子供を見ないと、子供の中での本当なんて理解できやしない。こういう「仮面」とは、偽者の自分をつくりあげるための材料であって、子供からしたら「都合が悪くなると(仮面を被って)逃げているよね」としか思えないんじゃないかな。当然、汚い大人だと感じているかもしれないし。

第一、そられの仮面は、人間の精神性とは無関係の事柄だからね。その無関係を言葉に出す。或いは、言葉に出さなくても「何かの仮面を被った状態」で、注意をする。
それ自体、はずかしいと思えるよ。だってさ、人間性を注意しているにも関わらず、人間性に関係の無い者(仮面)を持ち出さないと物が言えないのだから、子供にばかにされるのは当然だよね。
要は、仮面を被るのは大物のフリ(ある意味、大きく見せる必要があるからだとも思える)をするためであって、仮面を剥いだら実物が小さくて、子供に物も言えないような人間ということだともいえるよね。

ま、子供が大人をばかにするということは、子供の知能が足りないとか、まだ未熟だから、なんてことじゃなくて、余計な「仮面を持っていない」から、まんまで感じるというだけなのだと思うよ。


私は、どうせなら、かっこいい大人でいたい。そう思う。そして、もしかっこいい大人でいれたら維持していきたいと思っているよ。

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胸(ハート)のチャクラが緩む曲&喉のチャクラが楽になる曲&自律神経を調節する曲

胸(ハート)のチャクラを緩ませる曲はコッチね↓
【癒し系の音楽(曲:十五夜)Soothing music】 動画(PCのみ閲覧可能)



胸のチャクラが緩んだら、喉のチャクラだね。
喉のチャクラはコッチ↓
【癒し系の音楽(曲:輝く水)Soothing, music 】 動画(PCのみ閲覧可能)


いきなり(チャクラの調節を)初めても大丈夫な曲だからご安心を。この人の曲は(少なくとも今upした曲に関しては)、癒しというよりも、療法といった方が合っている気がするよ。ちなみに世の法律が許すなら治療のエリアにも入る気がする。だけれども治療として使うには、使い方にもよるけどね。

胸の詰まりが、うまくいけば取れます。
こういったエネルギーによる浄化は、うまくいくと「深いため息」が必ずでます。
それを目安にしてみてくださいね。



で、最後の〆は自律神経の調節の曲ね。というか、体内の気を循環させてくれるから結果的に自律神経に良い。という感じです↓
【癒し系の音楽(曲:誓い)Relaxing Healing Music 】動画(PCのみ閲覧可能)




結局、寝れずにPCの前で遊んでいる私。
早く寝ますね(笑)
おやすみなさい。

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プロフィール

HN:
軒龍卑(haruka)
年齢:
54
性別:
女性
誕生日:
1969/11/06
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
占い・読書(ほぼ仕事の本)・ガーデニング・その他諸々
軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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