白月光
心理|呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

あなたは本当の自分で生きてますか?

記憶が今を生きる意味

記憶――、
それは脳の中に存在する。

ひとつひとつの点が集結し自己の中の記憶として存在する。

その記憶がまるで臓器でもあるかのように
感情という名の血管や神経が網羅され一塊となる。

だから

触れると

痛いし

だから

触れると

苦しくなったりもする

楽しかったことも
苦しかったことも

それらの様々な記憶という臓器たちは
使われてこそ存続するもの

けれども
今無きものを
今として維持していれば

臓器の機能は衰え

感覚が麻痺していく。


きっと

それらは


時が解決する。


そう言われる由来なのだと思う。


記憶に存在する神経や血管は
脳の思考癖がその場所を指定し
その場所へ神経や血管が固定されるもの。

しかし

その固定が時を重ねていくうちに
間違いだったと
何かが違うと
そう感じた場合

本来の

今現在の自己の中での本当の部位へと切り替わるもの。


臓器の痛みは心の鏡。
更に言えば思考の鏡。

人生で悔いを残すとしたら
おそらくはその時々の自分の中での本当を理解しようとしなかった時。



そんな風に記憶は今と絡まり生き続けるものなのだと思う……。



また



記憶という名はあれど


今を制する今の本当だとも言えるのかもしれない。

それは過去を引きずる意味ではなく
未来という可能性という意味ではなく



今この時という現実。



つまり無駄なものを省いた残骸とでも言うべきなのかもしれない

その残骸こそが今の本当なのだと…


結局、残骸とは儚い記憶という意味ではなく
血肉としての今この時の我が一部。

そんな風に感じています。

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ちょっとした自分への心遣いという「がんばり」

おはようございます。
今日の福島市は朝から雨模様です。

さて、一晩やすんでどうにもならないモヤモヤが消えうせた私です。
寝て復活した感じですね。

というか、やはり、疲れている時というのは必要以上に物事を深刻化してしまう傾向があり、なんというか…そういう時はなにも考えないほうが1番だとつくづく思いますよ。

だいたい、疲れている時に考えたことって、最悪の方向でしか発想が沸かない。
しかも、その最悪の発想とは自分を苦しめる出来事を引き寄せる作業でもあるし、また、運を悪くしてしまう結果を招きますよね。

だから、疲れている時は考えない。

元気になったら考える。

考えなかった分を挽回するつもりで集中して考えてみる。
それでいいと思うんです。

そういや、この前、ふと思ったことがあって…。
疲れている時って、人の話を集中して聞けないし、読解力も低下するな。なんて思ったんですよね。

うーーん。なんていうのかな、こう、たとえばですよ…。
仮に誰かに何かを説明しなきゃいけないことがあったとしますよね。

で、その説明の中に
「流水で洗い流す」
ということを伝えなくてはいけないとします。
流水というからには流れている水という意味ですよね。

つまり
「水で洗い流す」
と、言ってはいけないわけですよね。
だって、洗い流すのは「溜め水では無い」のだから。

そんな簡単な意味さえも疲れていると、曖昧な認識や表現になる。しかも自分に都合良く解釈してしまうものです。

まあ、疲れている時に考えることは避けたとしても、誰かが何かを伝えてくることをちゃんと聞くとか聞かないとか、そういう部分とは、その人の人間性の評価をされてしまうポイントですよね。

疲れていたとしても、相手の話を適当に受け取るということは…
つまり、相手が伝えてきた内容と自分の行動を比較した場合、
「自分が今この時点で疲れていることの方が重要」
という「行動としての結果」をだしてしまう。

仮に、その時に、そんなことはない。考えていたし、思ってもいたけど、疲れすぎてうまく伝えられなかった。
という事実があったとしても…。

時既に遅し。

信頼を大小問わず失ってしまうものだと思うのです。

まあ、私の場合は、疲れている時に考え事をしないという自分で取り決めた鉄則のもとに行動しているけど、それ以外にも疲れている時の取り決めがあります。
それは、話をしたい、何かを伝えたい相手が「疲れている時」。この場合も、話し合うことを見送るようにしています。まあ、そんな時に話をしてもラチがあかないし、ましてや、話の矛先が、疲れているだろうその相手の「屁理屈」を“私が「訂正しつづける」こと”に集中してしまう。

そんなものは本当にばからしい。
意味の無いことを自分の感情任せでやっても仕方の無いことだからね。うん。

まあ、なんだとしても、疲れていたからという言葉で逃げる。そういう人間にはならないぞと事あるごとに考えている私です。

疲れている時に目一杯がんばるということは、疲れているという事実が存在している地点で“既に容量オーバーしている状態”なのだから、更なるがんばりは、「かなりのリスクを含んだ上での“注意力の低下”」になるわけですよね。

つまりは、行動だけを客観的に判断すれば、周りから見たら「適当な人」でしかなくなってしまう。

ということは、
「相手を思いやる必要性」を考えて行動した場合
当然、目一杯がんばっては駄目ということになります。


要は、疲れている時に目一杯がんばったりしたら駄目だけど、
ちょっとだけのがんばりが「自分という人間を強制しつづけていく」ことになる。


そういう心遣いって生きていく上で大事。そんな風に思っています。

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人間の器

とある初老の男が居た。

男は若い頃に子供を持った。

我が子が幼い頃、突拍子も無いことを口にして男を驚かせた。

驚きというよりも、

我が子を見下してしまうような…
我が子の頭つきを知るような…

そんな我が子はどうしようもないと
男が思ってしまう気持ちにさせた。

我が子は男の知らないところで青年に成り年を重ねた。
社会の風にも溶け込み、我が腹の中から突き上げる魂の叫びを世の風に溶け込ませた。
そして生きる我が手足を持つことが出来た。

だが、男の中で、我が子の精神の時が止まっていた。

突拍子も無いことを言う我が子のまま、時が止まっていた。

我の子の言う突拍子も無い言葉が
我が子という存在の土台となっていたことを浅はかに見ていた。

つまり、突拍子も無い…というのは限りなく浅はかに物事を見ていた結果での誤算。
要は、男の人間性や器量よりも、我が子はもともと男を遥かに越えていただけだったのだ。
それを幼いというだけで、我が年齢よりも下というだけで、愚かにも計り間違えてしまった。

目の前で起こる行動だけに目を奪われる。
だが、何故に、その行動をとっているのか。

そんな他愛も無い一枚裏の人間模様を見れないその様は、

人の人生の心の色を奪っていくものだと思う。

そういうのが脳機能に騙されることなのだと感じているよ。



人を見下すということは
己の器量を物語るのと同じこと。



その器量がどのようなものであれ
物語ることには変わりが無い。



どんな時でも

今の自分が悲しむようなヤツにはなりたくないと

また

自分で自分に誇れるヤツでいたいと

そう思うよ。

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自然の法則にはどうしようもないことをどうにかしてはいけないことがある

人の心の中に眠る意識は、自分では計り知れないものがあるね。
こういう時は大抵がこんなリアクションをする。なんて、自分の意識に自信を持っていたとしても…

人の思いはいかようにでも変容する。

自分の中の意識が自分を脅かす意識になって顔を出すこともある。

精神の根底だけをいうのであれば
自虐を理解していてもしていなくても
その境地へと辿り着くのだから

…奇妙だよね。

つまり自分の中で分離する自分同士。

なんて複雑な構造をしているのかと本当に思う。

しかし、そんなものが人であり。
また、自分も人なのだ。

それだとしても、天は何の意味を持ちこういうことをしたのだろうね。
その部分は自分以外の誰かを見ることで、自分の愚かさを知るようになっているのだと何かに書いてあったような記憶があるよ。

愚かさを知るため?
たとえそれが愚かさじゃなかったとしても、なんだったとしても、
私はそんな理由じゃないと思うよ。

理解できないことを理解してはいけないから
だから必然的に起きている身体構造の仕組みなんだと思うよ。

まあ、理解できないことを…に関して言えば、
精神科医か専門家しか真理を理解していないのだろうけど。
だとしても、知ろうと思えば理解してしまうことがある。

それも、理解してはいけないことをね。

自然の摂理に沿って人の肉体も存在している。

雨が続けばカビが生え川の水が増したり、
天気が続けば作物が枯れていくように、
繁栄させてはいけないことや
衰退させなくてはいけないこと

つまり、どうしようもないことをどうにかしてはいけないことがある。

自然の法に触れれば
止めようも無い仕打ちで代償が返るもの。

それは人の心内でも同じなんだとそう思う。

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智についてのおまけ記事

関連記事
夢を追いかける仲間
智と人間性

自分以外の誰かをおそれる。

また

尊敬の念から羨望する。

そういう瞬間が在る。


こういった瞬間は確かに起こっている「物事」が強烈過ぎて、それらの行為に目と心を奪われる。


しかし、誰かであるその人へ世界観の異なりを明確に本気で意識した瞬間とは、誰かであるその人の「強い思念」と、それと共鳴し直結で連動している「智」が繰り広げている行動と言動の様なのだ。

たいした智ではない場合、前文で言う「強い思念」は存在せず、ただ在るだろうものは「悪賢い」という知恵なのではないのかと思う。悪賢いという表現が不適切だとすれば、探求に探求を重ねていったら「」という本能へ辿り着くのではないか。

つまり、本能を小出しにしたり丸出しにした欲からは悪知恵しか発案されない。それは智とは言わないだろう。

要は、本能の欲ではなく、我が思いの根底の気持ちを素直に読み取る習慣が、智と成り得るもの。


話は戻るけど。
結局は、この人には勝てないとか、羨ましすぎるという、自分以外の誰かへ人間性の評価を下すときというのは、行為や言動ではなくその下にしっかりと息づいている思念へ「肝銘(感銘ではなく肝銘)を受ける」のだと思う。まあ、この肝銘に付いて言えば、人によっては「行動や言動に目と心」を奪われることで、その下で繰り成す肝銘を認識できずにスルーしているだけだということも往々にして考えられるもの。

仮に、その肝銘が悪く出れば「鼻を折られる」という意味となる。この鼻が折られるという私が考える起点は、屈辱も怒りも抹消された意味での鼻を折られるという意味。
それから、肝銘が良い意味で出た場合は、尊敬の念を腹の底から持つ。
まあ、こういったパターンを予測できたから、感銘ではなく肝銘という言葉を使ったのだ。


上辺だけの人生を捨て本当の意味で我が人生を歩きたいのであれば、悪知恵を捨ててしまえばいい。



だいたい、悪知恵とは、人を騙すこと。騙す人は騙されるもの。

そのことに気づかずに回転が早いと思うのは浅はかというもの。



智とは、知識を増やし行動や言動とし用いる「思考」を意味するものではない。
持ちうる素材を発酵し、より熟成させ、それら熟成したものを自在に行為として生かせるその表現が智なのだと思う。

また、

知識と思念の連動無しに智は生まれず。
無垢な心にのみ純粋な智が宿るものではないのかと、そう思う。

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執着がいけないのではなく美となる人間性の問題

人の執着心とは時として悍(おぞ)ましく、賛同の様によっては美とされる。

しかし、そういった執着心が人間の能力の域を超えたとき
霊的な世界での変異が巻き起こる。

その様は貫くただひとつの思いを託し投げつけた矢のようでもあり

また

自分の思いに存分に溺れ、我が思いに飲まれた木偶のようになることもある。


執着がいけないとは思わない。
だけれども、執着は変容していくものである。

だからこそ、それらの思いを貫くのも我が人間性になるのだと思える。

それは道徳的な表現の意味ではない。
霊的にも心理学的にも同じ意味合いなのだと考える。

人間性の美は猛り狂う四季折々に組み込まれた猛威なのかもしれない。
そして、それらは表面ではなく、中で輝くものだからこそ美なのかもしれない。

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些細なことだったとしても我が本能というもの

好きという感情は、日常生活の中で盛んに脳内で反映されている出来事なのだと思う。
ただ、それらは、自分の中でどの程度の自覚があるかによって様々な感覚や思念と成り、何れ自分自身の自覚へと結びついていくものなのだろう。

この好きという感情は、人が人として生きていくことや、生まれ持っての人としての機能を存分に引き出しより良い人生を歩んでいくための必要不可欠な存在なのだと思うのだ。

たとえば誰かと小競り合い程度のいさかいがあったとして、素直にもとの関係へと気持ちや行動を向けることができればよいのだけど、そうはいかないこともある。

大抵そういううまくいかない時という場合には、知らず知らずのうちに意地を張ってしまっていることがある。
そのちょっとした意地が「好き」という純粋に湧き上がる思いを否定するものなのだ。

まあ、それに気が付くときは後の祭りというのが常だと思うけど…。

なんていうか、こういった些細な好きという思いへ素直に従うことができるようになると、人生の味が濃厚になるものなんだと思う。

その素直に従うという意味だけど、ただ好きなことを好きなままにするという意味ではない。
好きなことを好きなままに通せることもあるだろうけど、そうしてはいけない状況も在る。

…なら、好きという思いに素直に従うというのはおかしいと考えるかもしれない。だが、そういう意味でもない。


素直に思いへ従うというのは、
自分の中での反応という意味なのだ。


自分の中で純粋でも複雑でも「好き」という思いを理解することは、
何れ生き抜く勇気を持たされることと繋がっていくもの。


そして、自分の中での好きを理解してから

その後どうするかを考えればいい。


こうしなくちゃいけないから、好きでいてはいけけない。
と、否定するのもありかもしれないけど。


それだとしても、

好きな思いは本能なので

どうしようもない思いなのだし。


好きだけど、こうするしかないよね。

という道を仮に選ばざるを得なかったとしても、
その道よりもかなしいものがあるとしたら、
好きな気持ちさえ否定されてしまう自分なんじゃないのかと――、
そんな風に思うのだ。

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おさらいとお知らせ

関連記事
精神力を鍛えるとは欲を制することではなく
テーブルゲーム

本能から生え出る欲。
まあ、それを身体機能上、自然の摂理だと受け止める。

そして、

欲を出している自分を眺め、人間という生き物の法則を知る。

欲を出す本能と人間としての部分は、そもそも分離した機能だということ。
捉え方としたら、風邪をひいてしまったという事実に狼狽(ろうばい)するのではなく、風邪をひいたからどうしようかという例と酷似しており、また、異なった機能だということです(意味:風邪の菌と肉体)。

つまり、化学変化(欲の素へ同意すること)が起これば
「分離した機能同士」が「融合」する。
上記文章を風邪をテーマに例をつくると以下のようになります。
風邪菌と肉体=もともと異なったもの
風邪菌におかされた肉体=風邪=融合

この融合が欲の意味を成す。

電気抵抗と一緒。
強いものが弱いものへ流れる。
ということだよね。

また、人間としての部分は以前の記事で精神と書いているはず。
正確には精神力。

心も電気と関与しているのですね。
もともと、それは知っていましたが、更に深い意味で知りました。

つまり、自分が心から喜べることをすることで、身体内に電波が発生します。
ただし、その電波の威力を強化するものが例のテーブルゲームと読解力ということになります。

その電波の種類は、
「精神力を強化した(もしくは、その過程)状態の電波と同質」です。

要は、「本能の欲の素へ対抗できる電波」を
心から喜べることをすることで、自動的に存在が可能になります。

しかし、精神面では対抗というよりも、共存という結果が成立します。
自然の法則と一緒です。
ありのままの自己の中に存在する自然の摂理と法則の存在を知る。
自然の摂理と法則を知ることで、その生態系の中で、どうやって生きていけばよいのかという真の希望を見出す手がかりになります。

要は純粋な欲を抱き、自己の環境をよりよい状態に整備していけるということですね。

だとしても、様々なトラブルや障害から抜け出れます。という意味ではないです。
まあ、トラブルや障害は台風や雨風と同じですね。
こういう時はどうするべきか。と、まともに考えるしかありません。
いちいち障害やトラブルを嘆いてしまう、その感覚も欲の素と融合した様なのです。
そして、どうするべきかと考える部分が精神のエリアだということですね。


精神力を鍛えることで、心の目の視力を上げてく技がいつしか完成することでしょう。



※心理学的に言葉が異なっていたらご勘弁を。


でもって、いきなり関係ないお話ですが…。
というかコチラは同業の方へのお知らせですね。


この辺の霊感セミナー(技術面)はやりません。

どうしてかというと、霊感の場合、習わないと出来ないのなら初めから出来ないと考えたほうが良いでしょう。
もったいぶっている訳じゃなく、分かる人は既に分かっているし、分からない人には分かったとしても分からないのですから教える意味も無いです。
なので技術面に使用できるような事実は何処の記事にも明記してありません。
探しても初めから書いてないので無駄です。

では、おさらいとお知らせでした。

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プロフィール

HN:
軒龍卑(haruka)
年齢:
54
性別:
女性
誕生日:
1969/11/06
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
占い・読書(ほぼ仕事の本)・ガーデニング・その他諸々
軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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