白月光
My thought(私の思想)|呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

あなたは本当の自分で生きてますか?

道徳を身に纏い武装しては余りにも自分が惨めだと思う

道徳とは正しいことだけを掬い取り表現する。
常々私は道徳というものに不満しか持てない。
言っていることは正しい。けれど、それだけじゃなくて補足しないとただの押し付けだよねと思う。

それは私が生きている上でまだまだ甘いのか或いは人間が出来ていないのかという結論に達することなのかもしれない。それに私が理解していないということで言うならば、道徳は長い年月を経てこの地球上に蔓延しているという事実がある。

だとしても私は思うのだ。道徳とは綺麗に飾りすぎて悪や邪を隠す道具になってしまっていると。
だからといって犯罪を斡旋したいとかじゃない。ただ単に言っていることは正しいかもしれないが一部だけを抜粋して、それを世の道徳であるとのたまうことに疑問を持っているということ。

人を殺してはいけない理由。
慈悲を施さなきゃいけない理由。

こういうものを考えていくと、まるで玉葱の皮はどこまでが皮なのか? と言っているのと同じように聞こえてくるよ。人を殺してはいけないといっても、戦争に借り出される兵士は人を殺した分だけ英雄であり、慈悲を施した坊さんは自分の死活に関わり床に伏せる。
道徳の中心がぶれるのは悪を混濁させた道徳をつくらないから矛先がおかしくなって、的を外した道徳が堂々と街を歩く。
だけれども、そんなものをつくったところで履き違えた悪の勇者が首を擡げる。
しかし、臭いものが増えないように美化した道徳を主張すると、この世の底辺から腐敗が進行していく。

まさに玉葱の皮……。


それでもいえるとしたら、人の思いは鏡であり運命に反映されてしまうということ。
道徳だとて綺麗ごとであれば己の核は腐れ醜汚に満ちてしまうということ。
道徳を知るには自分自身の核と向き合い、1度は道徳を捨てきらないといけない。つまり穢れに身を沈めなくては道徳は学べぬものだと考える。

高見の見物でいつも綺麗に着飾り、感情と脳内の思考がリンクせず、脳内の思考から綺麗ごとを吐く。
道徳という名の鎧を着込み武装する。
上澄みの道徳で鉄拳宜しく制裁を加える。

それらは無垢な人間の心を歪ませ破壊する。
子供が相手なら、子供は自分との位置関係により正しい正しくないという判断をする。それ故に破壊後は己の思考に依存し、それら苦悩を愛だと誤認し貪り続ける。その愛の形は余りにも儚く痛々しい。


道徳は頭ではなく心で感じるもの。
口から出る言葉が卑しくとも、卑しさ無くては道徳は語れぬものだと――、そう思う。

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自由無き自由の枠を受け入れ勇者となる

planktonは泡立ち深海魚が通るたびに自然の摂理は成り立つ。

神の体の欠片から神々が誕生し神が人間をつくった。
人間は神の作品なのか。作品からひとり歩き出した神々の亡霊なのか。
そんな起点を知り何を得たいのだろうか。

謎が謎のままだとて、ただただ言えることは――、
紛れもなく人間であり、人間であるが故に苦悩するということ。


呼吸することに疲れ、衰弱した体が天命を告げられるまで全うしなくてはいけないのか――。
何故人々は自由という枠の無い枠に囲まれ、死のステージへ逝き急ぐ。
何故全てに自由などはないのに、定められた枠の中で自由を奪ったつもりになるのか。

悲しさ、儚さ、虚しさ、惨めさ、やり切れなさ………。
これらの思いは、子宮に依存する愛を知り、誰かを身を焦がす程愛し血肉となり、果ては大いなる愛である海へ旅立たなければ脳の記憶は抹消できない。
それ故、自分自身を支配し続け、記憶に刻まれている言霊という名の呪縛は――、
己の支配のもとで逝き急ぎ、己がつくりあげた思考と亡霊により愛の解放が不可能になる。



故に呪縛を解き放つは自分の精神。


天を仰ぎ己を粉砕するのではなく、自分自身の中に在る己を、肉体という名の小宇宙の中で覚醒するべき。
所詮、自分自身が1番だと考えられなければ、運命の伴侶との絆などできやしない。増してや自由の無い自由を堪能することもまま成らない。

世にはびこる道徳とは、人間の根底から生き抜こうとする人間には劇薬となる。
1度は劇薬に負け生きたまま己の死を向かい入れる。

生きたままの死は朽ち果て意味の無い己を知る。
嗚咽し、絶叫し、狂乱することだろう。

――やがて、どうにもならない在るがままを知り、世の道徳に戻る。



真の儚さを知る木偶とは勇者成り。





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今回の記事と多少関連している記事

水魂(みずたま)の還る場所
2012年アセンションのヒント 

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マニュアル化した霊気と本来の人体浄化(霊気)を見つめてみる

霊気(れいき)。多くの人間が知識のひとつとして把握している単語になっていますよね。

霊気には様々な系統があり、第三者へ施すための(民間の)資格だったり自分がよりよい運命を切り開く術としてであったりと、多種多様の考えから霊気の門を潜った人間はここ数年で急増したのではないでしょうか。

私は霊気のマニュアル化について以前から疑問に思っていました。それは誰がやってもできる。というキャチフレーズがはびこっていますが、正直疑問に思います。曼荼羅らしきものを用い習得していく技、それが霊気ですよね。最終的には宇宙意識とリンクしなんたらかんたら…と、意味があるようです。

では、霊気の最終地点は霊気でなくては辿り着けない境地なのでしょうか。人間本来の最高の様を求め上げているという意識で活動しているのは知っています。その門を潜り技を体得すればそれほど人生が激変するのでしょうか…。

私の個人的な、そして独創的な意見ですが、霊気を体得し施せるものはもともと霊的な能力、或いは気を操ることができそれら操った気の技を鍛錬した者。その両者以外は不可能だと考えます。
つまりは、その両者以外の人間には無理だと断言できますよ。だからといって、この両者が特別であり素晴らしいとかそんなことは微塵も考えていないし、皆同等の人間だと言うだけです。

それに、マニュアル化しているという事実がありますよね。あれって、霊気って、どのような部分から立ち入ったとしても誰かに教わり習得するものでは無いと私は考えます。なぜなら、そういった能力(霊力か気の力)を持っていて尚且つそれなりの実力があれば、習わずとも習得するものだからです。ただしその場合でも努力に努力を重ねるのは言うまでもないですけど。

霊気にマニュアルという事態、私からすれば、子供の育て方の法律があるようなものだと思います。

門を潜った人間を否定したくて書いたのではありません。技術を商品にし使えない業を提供しているものへ対して意見を言いたいと思い書きました。
気を悪くしてしまった方がいたらごめんなさい。でも、こういうことを思っている、或いは考えているのは私だけじゃないと思いたいですね。

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いじめという名の心の空洞化現象は今の時代だからなのか?

人と人の繋がりは会う機会ばかりを示しはしない。心の絆が人と人との繋がりを確定し広がりや展開をあらわすこともある。

頻繁に顔を合わせる仲間がいても、絆が薄ければ何れ離れて行く存在となる。

絆は目に見えない強い結びつきがある。だからなのか、現実に見えるものじゃないから軽視する人間も多くなっているようにも思える。そんな見えない何かに囚われ煩わされるくらいなら自分の時間を充実させた方がいいよね。とでも言う意味なのかわからないけれど、或いはそういう淡々とした人間関係を好む時代なのかもしれない。

だとしたら、そういった考えのまま家族の和の中に溶け込んでいたらどうなってしまうのだろう。私は娘のいじめの件で幾人かの生徒と接触し、長時間に渡り直接はなしをした。その時にこの今書いている時代的な象徴であろう考えの持ち主達とも接触している。
その思うがままを私は生徒へストレートに話をした。当然、校長や数名の先生方の前。勿論、その生徒の親もいる前で、私は意見を述べた。

きっと虚しいであろう。
そして既に感覚が麻痺して味覚が異常になり味がわからない。
ましてや、自分が何が好きで何をしたいのかさえも分からず延々とキャラを演じているのだろ。

そういったことを長々ととある生徒へ本気で言ったのだ。

が、しかし、その生徒の親は初耳のような顔をしたのだ。だけれども、親が初耳の心境でなければいじめなどは無かった可能性が高いと言える。
いじめをした我子がいじめを受けている子供と同等の精神的虐待、或いは心の傷を親ないしは友達から受けているという事実を浅はかな意味でしか考えられなかったようだ。辛うじて、その生徒の親もいけなかったのだという反省はあった。つまり、辛うじて反省したその反省こそが浅はかなのだ。要は知ったつもり。分かったつもりでいても所詮肝心な部分が飲み込めていないのだから、何も理解していないとも言えるのだ。
その上、世間体が先に立ち、羞恥心が大半を占め正常に物事を判断できない状態なのであろうと私には思えた。それは返ってきた言葉や、ちょっとした仕草でも見て取れたものだった。

そんなものを判断するのに霊感で見たとかじゃない。
単に静かな気持ちで相手の様子や素行を伺い、更に随時新たな展開を整理し感情ではなく状況を理解する処理能力を働かせれば、誰だとしても見抜ける範囲のこと。

だからと言って、そこまでの話を(そんなことも気が付かないのかということを)私がしてしまうのもどうかと思うし、私がそこまでしてやる必要も無い。恨みはあれどそのような義理など微塵も無い。


第一、親自身が一切が子供のためではなく、己のためだけに改心する気持ちが無ければ子供は永遠に救われる訳が無い。故に、その事実に子供自身も気が付くべきだし、大宇宙の中に存在する心の掟を自ら気が付いてよい年齢なのだ(娘もその生徒も中3です)。いいや、知っていて当然の年齢だと言えよう。

ま、また機会があればこの話しに纏わる事柄は書きたいと思っているので、興味のある人は気長に待っていてくださいね。

いろいろ私なりに感じている事、理解している事があるし、もしかしたら、私からのこの情報が必要な立場の人間も居るかも知れないし。何にせよ今日はここまで。

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「畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ」そうだよその通りだよ→2012年アセンション

畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ。←前回ブログ記事に掲載したけど、この言葉って私の中ではしょっちゅう考えること。今回はまたまた2012年アセンションについてだよ。とってもとっても意見したいことがある。そして、「畢竟して……」の言葉と絡めて言わせてもらう。

***********

この(2012年アセンション)次元上昇のパワーを使い、自己の持つエネルギーを最大に上昇させる。

じゃぁ、それはなんのために上昇したいの?  

そこでヒーラーならば皆を助けるため。或いは、自己の根底にあるトラウマやインナーチャイルドを解放し、綺麗なパワーに変換させるため。だとする。


で、だからさ、それをしてどうなるの?? と――、
真剣に思うんだよね、私。

皆を助けるって言ったって、それって(助けられると思える人間の方の)自分が「これじゃいかん。ここをこういう風に変えなくては」と、気がつかなきゃ意味ないよね。で、それに気がついた本人がいたからどうなるっての?  
そんなことしたって助けたなんてはいわないよ。だってさ、ヒーラーがやったから変わったのではなく、自分が変わろうとして努力し、気づきを得たから変われたわけで。何が切欠だったとしても、その切欠とは、多くの切欠の中にある只1つの切欠に過ぎない。
それに自分の能力を上げたとして、何になる?
そんなこと、誰が評価するの?評価されたから、だから何?
お客さん(クライエント)は、単に能力が高いとか低いとかだけで評価をしているの?
能力が高いということはそんなに素晴らしいことなのだろうか――。 

ま、2012年アセンションへのアクションで、お札を買ってこよう。お守り買おう。パワーストーン買おうなど、その程度の期待なら、分からないでもない。誰だってちょっとでも調子が良い方が良い訳だし。けれど運の良さの全てが2012年アセンションではないということはハッキリいえる。

だから、つくづく思う。最近は特に思う。上昇したくて仕方の無い様々な人間がいるが、それ(2012年アセンション)をして何をしたいのだろう…。そんなんで何が変わる?  


本当に変われると思っているのだろうか。物凄く不思議だよ。まじで。
(↑あくまでも2012年アセンションで上昇し全てが変わると思い込んでいる人のことね。誤解しないで)


別に嫌味を書いているつもりも無いんだよ。現実を客観的に書いているだけなんだけどね。

次元上昇して、トラウマが浄化して、確かに少しは楽かもしれないけど、でもさ、よく考えたら分かると思うよ。
そんなのが無くなったからといって、自分の全てが大きく変わると思わないほうがいい。そういうのって、要らなくなったから捨てるって言ってるみたいだよね。それまで苦労して頑張った自分がまるで用済みだよって言ってるみたいだよ。

その(それまで頑張ってきた)自分と共につちかっていく何かを求めるのではないのなら、それ以外に自分を変えるために何を求める?!
人間は物じゃないよ。

第1、それまで生きてきた自分自身の性格というものが存在している。じゃぁ、それら(今まで生きてきた自分の)思考パターンはトラウマが無くなれば(或いは次元が上昇すれば)変わるのか?  

んな訳ないよね。

そこは努力でしかないわけで。機械じゃないんだから、はいよ~交換ねぇ。ってな訳にゃいかないっしょ。
(↑だから世の中にはカウンセラー等が存在しているんだと思うんだよね)

つまりはさ、なんの意味も無いと思うんだよ、2012年アセンション。

欲から物事を見たら色とりどりだからとっても美しいのだろう、が、しかし、欲とは美しく見えるものだと思うよ。本当に美しいものとはもっと身近でもっと色あせて見えてとても素朴なものだと思う。宝石や財宝のような輝きがない代わりに、これまでの歴史が詰まったちっぽけに見えるものなのだと思うよ。


ま、ふいに書こうと思ったんで。とりあえず上げておきました。
なんにしても考えることは大切――。

「畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ(それをして何のためになるのか)」



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山を越え目の前に広がる樹海を前にして

大きく立ちはだかる壁を一気に全力疾走で超えました。
今回は家族の各々が手を取り合い、壁のようにそびえ立つ山を降りきるまで、誰一人離れずに猛スピードで駆け降りなければいけなかった。だから誰かひとりでも余所見をしたりもう走れないと諦め弱音を吐いてしまえば、その地点で崩壊してしまったことでしょう。



どの家庭にも試練となる巨大な壁が、生きていれば突如現れることがあります。例えその壁の出現を予測していたとしても実際に現れると尻込みをしてしまう。

人間はそれらを恐怖心として捉えるのだけれど、泣きながら恐怖の味をお腹一杯舐めてしまうことで、ようやく恐怖の真のシルエットが出現します。


恐怖の味を舐め尽くすからこそ、どのように恐ろしく、何をしてしまえば食われてしまうのか、そして自己は何をすべきかを悟ります。

故に恐怖を妄想的に膨らますのではなく、恐怖の(現実的な)真のシルエットを捕らえるからこそ、立ち向かう勇気が現れるものなのだと思います。


そして今自分と自分の家族は、切れ目の不明な樹海を目の前にし立っています。もう間もなく、あと数歩で、その樹海に入るでしょう。
方向の定まらぬ樹海の中は、きっと視力など何の役にも立たない。各自の耳、鼻、肌、それらを用いて野生動物さながらの研ぎ澄まされた能力を出し切り進んでいくしかない。今現在存在している真の恐怖を、しっかりと各々が受け止めているから、泣いたり喚いたり、無駄に恐怖におののくようなことは無いけれど、全ての意識を線のように連ね、溶け合い、交じり合い、一筋の線を作り続けていくしか無いのだと思う。



物音と、自然の無音が同時に伝わっているのを肌で感じています。無音は音の無い吸い込まれそうな静粛を保ち、私の中へ飛び込んできます。自然の摂理となった循環を受け入れ、自己が粒子となり解け合わせています。故に天の意志が示す光を迷うことなく辿り受け止め、いずれ樹海を抜けるでしょう。



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其々の目に映る風景は違えど 

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其々の思いの果てが同じであれば


今という永遠にも思える耐え忍ぶ心が連打されようとも


今という 恐ろしく長い時を刻んだとしても


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気が付けば 安堵という心の聖地に辿り着くことだろう


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存在しているということ

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人は追い詰められると崩れてしまうこともある。
人によっては追い詰められ牙を剥く。
また、ある者は追い詰められ本領を発揮する。P1070093-1.jpg


本領とは本来の性。つまり本当の自分のこと。



自然の植物は常に地のまま。ありのまま。
故に生存することにとても貪欲。だからこそ強く逞しい生命エネルギーがある。


強靭なエネルギーとは、悪と善が融合し美の頂点を極めた時に発光するもの。

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発光はすべての鎖が解き放たれ開放されたことを示す。しかし、それらの全ては束縛という枠の中で行なわれる。つまり矛盾が自由と束縛を約束し、揺れるバランス棒の上でそれぞれが美の曲線を描く、美しい舞台なのだ。



しかしその舞台から飛び降りてしまうと、人間の持つ精神を谷底へ落としてしまうことになる。


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生物にも死霊にも各々の舞台があるように、人間にも決められた舞台がある。




それが存在するが故の掟なのかもしれない……。




 

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心理学者と医者と霊能者のプロジェクトが組めればいいのに

ここ1ヶ月ほど男性の心理について考えさせられることが多い。というのも、実は、ここ1ヶ月ばかりお客さんの鑑定内容が酷似しているという現実がある。


私は男性じゃない。どう考えても心も体も女だ。たまに男だったら良かったのにと同性から言われたり(口説かれたり)はするものの…同性を愛せないのだから、紛れも無く女。その女の視点から男性の心理(真理)を考えるということはとても難解だよね。


でもね、そういう心理とは霊感だけが全てではないのではないか…と、数年前から考え始めている。どういうことかというと、例えば…


Aさんがどこに行ってしまったのか分かりますか?


これを霊視の本気モードで結果を出したとする。しかも全ての鑑定を断り、自分の足で歩き、警察犬のようにターゲットの気配を追う。更に完璧にするため、地図を見て地図上の気配を追い照らし合わせる。そして全体の構図を頭脳で理解し、最終的に霊視で気配のルートを追ったとする。
で、数日かかって結果がでたとするよね。その結果は本当に正しいのか? と、思うのと同じだよ。霊感が無くても普通に誰でも、本当に正しいの? と思うよね。その考え(疑問符)は正しい(或いはまともだ)と私も考えているよ。
だって、ひとりの人物を探し当てるのに、ある現実が伴わなければ結果はだせる訳が無い。


しかし、確実に間違いなく言えるとしたら

「霊視結果ではこうなりました」

ということだけなんだよ。


大体さ、現実の証拠と照らし合わせない限り、間違いなく正確だとは言えないでしょ。ごく当たり前の考えだと思うけどね。
メディアに翻弄されたままの霊能者のなんと多いことか。ただただ虚しい。
道徳心やまともな考えが僅かにでも狂うと、メディアに踊らされ翻弄されてしまうよね…。


つまりね、心身症の人間がいたとする。そして、この人物はとても肉体的な症状が出ていたとする。医者に行くには内科なのか心療内科なのか…。軽い症状であればどちらかで良いかもしれないよ。
でもね、そうはいかない症状だってあるでしょ。そうなると、総合病院とかで色んな科の先生方が話し合い、どう治療していくかということを話さないといけないよね。
内科は内科のプロがいる。精神科は精神科のプロがいる。それらプロの専攻している学問や知識に、部外者が敵うわけがないし、必然的に多方面からのネットワークが必要だということと(Aさんのことは)同じ意味だよ。


要は人を探すのに霊能者だけじゃ、正確ではないということ。仮に霊視結果が当たっていたとしても正確とは言わない。なぜなら、専門分野以外の知識を必要とするし、第1に取扱説明書の存在しない商品だという欠陥がある。たとえ、どんなに素晴らしい商品(仮に霊視だとして)だったとしても、取説が無きゃ使えないよね。ということだよ。ま、使えたとしても誠実な販売方法では無いよということ。


話を戻すけれど、そういう多方面(其々の専門分野)からのネットワークというものは、時として偉大な結果を世に生み出す事もあるのだと思う。けれど、悲しいかな、日本人は、心理学を研究している者と医者は連携しないよね。ついでに言ってしまうと、心理学を純粋に研究する者と(人間の持つ真理を研究する)霊能者も連携しづらいでしょ。本来ならば、医者と心理学者と霊能者が1体となり研究チームを作ってしまうのが、望ましいと思うんだよね。そうすれば、医学的に不明な部分・心理学的に謎な部分・霊能者が不明な部分、という其々が良い意味で向上し研究されていくはず。


そういうことで言ったらこんなこともいえる。例えばね、脳医学を専攻している人間がいる。結果は出せるが途中過程が不明、或いは疑問だったとする。で、霊能者が同等の物事を捉えたときに、脳医学を専攻している人間が疑問に思っている部分は完璧に把握している。でも、どうして、こういう結果になるのかが分からない。つまりは、両者が疑問と疑問をぶつけ合う事で、いずれ答えが出てくる可能性は大いにあるということになるよね。


日本人はすごく勿体無いことをしていると思うよ。世の中に本当の意味で貢献できるかもしれない可能性を、芽も出ないうちから腐らせてしまっている。
霊能者の多くが私と同じことを考えているかどうかは知らない。ただね、莫大な発展を遂げる可能性があるのに悔しいなと思うよ。
別に研究チームをつくってノーベル賞を取りたいとか、世界に認められたいとかそういう意味じゃないんだよ。ま、そういうチャンスが私にあったところで、そういう学者や医者達を唸らせ認めて貰えるほど私の技術と知恵が優れているとは思えない。良くても、せいぜい、研究のヒントとなる言葉を並べるくらいしかできないのだと思っているよ。
へりくだって言っているつもりも無い。本当のことを、本当の気持ちを、そのまま書いているだけ。


いやさ、なんでこんなことを書いたかというとね。いつか日本を含むアジアなりヨーロッパなり…世の役にたてればいいなと考えている。私が役にたったところで、ほんのちっぽけな力しか発することはできないのも分かっているの。それでも、それでもだよ、私なんかで良ければ使って欲しいとそう思うんだよ。
そう考えていたとしても、たったひとりでぼちぼちとやることになるかもしれない。それはそれで仕方の無いこと。それでもね、もしも、そういったプロジェクトが組めればより多くの人間が、真の生きる喜びを見出せるかもしれないでしょ。

ひとりでやることには限界があって、たくさんの力と協力がないと生かされない事が、なんと多いことだろうか。

だから私はこれからは、自分ひとりができる限界という事実がある限り、誰かを頼ることをしないといけないね。
そして、それが実現できるように自分の人間性も知識も磨く事を怠けてはいけない。
そう、考え、思う、今日この頃。

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プロフィール

HN:
軒龍卑(haruka)
年齢:
54
性別:
女性
誕生日:
1969/11/01
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
占い・読書(ほぼ仕事の本)・ガーデニング・その他諸々
軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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