白月光
My thought(私の思想)|呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

あなたは本当の自分で生きてますか?

人間の可能性のひとつとして…

前記事への追記です

***

仮に殺人願望があったとする。
それも自分でどうすることもできないほどに。

その思いというか願望はとうぜん世の中のルールに反すること。
または、反する位置の道のりに存在するというということ。

けれども、人はそういった願望を封印しようと思えば思うほど
本能が突きあがる。

ならば

小説でも書いて、小説の中で幾らでも人を殺したらいい。
もしくは、保健所のガス室係りになって動物の殺害をしたらいい。

どうしようもない性とは堪えるものでもなくて、
生かし方を変えればいいだけなのだ。

それだとしても殺人を犯したいなら戦争している国に行って
合法的に戦場で戦えばいい。

その考えは正しくもなく、間違いでもなく。

ただ、自己の中の願望へ忠実になり
その結果の行動の選択をしただけなのだと思うのだ。

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野望でも欲望でもそれらは生かす場の問題

時として、希望という文字が自己の心内で激しく移動する流木のように彷徨うことがある。

それは野心なのか

或いは欲望なのか

また純粋な願いなのか

若しくは、それらのどれでもないとしたら何なのか。


そんな問い掛けも流木のように素早く流れ去り、運が悪ければ砕け散ることも在る。


世の中にどれ程の正があったとしても、
誰かがそれは違うと否定したとしても、
自分の中で正しければ正しいのだ。

世の判断により、あえて自分から進んで流木を破壊する事も無いだろう。

確かに、なにをどう考えても偏見だよと誰かに言われたとしても、
それでも、自分が理解できないものを理解する必要はない。


どのような希望であれ


たとえ残虐非道であったとしても


まともだったとしても


まともな皮を被った非道だったとしても


大切なことは


希望の生かし方が問題なのだと思うのだ。



たとえどんなに非道だったとしても



まともに生かせる場所を探す…



ただそれだけのことなのだと思う。



だからこそ

希望の二文字が自分の未来に存在するのであれば、
今在るひとつを手掛けよう。

大きく膨らむ希望ならば尚更のこと

たったひとつの今在るひとつをやってみよう。

きっと、そのひとつは…
今までの100分の1程度のパワーでいいのだ。
それまでが本気だったとしても本気じゃなかったとしても、
そんなことはどうでもよくて。
それまでがんばったその瞬間の100分の1だけに
本気でパワーを出せばいい。

きっと、私が「今ここで言いたい構造の起点」になっているものを説明したら
膨大な量か、若しくは、あっけないくらいに短いかだろう。

そんな説明は今はしなくてもいい。

ただただ思うのは
がんばる矛先を変えること。

そして体は辛いかもしれないけど
神経を楽にすること。

そうすれば

ありのままの自然が見えてくるに違いないと…
それは裸眼で捉えるありのままの姿になるのだと

だからこそ

結果として

生かせる場で自分が生きていける素晴らしさへ辿り着けるのだと

そう思うのだ。

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様々な好きという思い

好き

その言葉は 誰もが持っている我が思い
何に対しての 好き なのかは その人自身の価値観

けれども 好きでいたくないのに
その思いが断ち切れなくなってしまったりすることがある

湧き上がる願望を断ち切ることに どんな意味があるのだろうか

その思いは本当に断ち切るべき思いなのだろうか
何のために断ち切るのか

結局 辿り着く最後の答えは 自分が辛くなるから なのではないだろうか

好きの対象が人間であった場合 
相手が苦しむからというよりも
苦しんだ相手を見る自分が辛いからなのだと思うのだ

また限りなく素直に 
実らない恋や愛にしがみつく そんな自分に耐えられなくなる
ということもあると思う

対象が人間でなかったとしても
人はたくさんの 好き がある

好きを諦めるのもひとつの手段でもあるし

また

好きは湧き上がるどうしようもない本気の思いだから
その部分を抱きしめながら
荒れ狂うその部分をなだめながら
共に心の中での我が思いとして共存し生きていくのもひとつの手段なのだと思う

ただ 私自身 常々思うことは
好きなものを無理矢理きらいにしてしまわないように
あるがままに
自分の中の自然な生態系を眺めている

好きになってしまったことと

現実に生きていくこととは

異なっている

だからこそ あるがままに受け止める
四季による猛威が美となる瞬間のように あるがままに受け止める

耐えるでもなく

貫くでもなく

あるがままに……

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神聖の意味を学ぼう

霊能者というと、神聖でなくてはいけない。
そんなイメージを多くの人が持っているのではないかと思う。

神聖とは穢れが無く清らかというようなことでしょ。

そういうイメージを突き詰めていくと、宗教的なイメージに酷似した像に到達する。
宗教的とは、それぞれの宗教で崇めている像。

それと、霊能者と関連している事柄で言えば、スピリチュアル。

こういったスピリチュアルの人間も神聖というイメージをもたれやすい。
2012年アセンションの影響で周りの期待と羨望を一心に集めている今、特に、リアルなイメージをもたれていることだろう。

また、こういう事柄を多くの人間として捉え考えた場合、邪の思いは道徳に反する。みたいな、そんなイメージが生きている気がする。

さて、ここまで書いて思うのだけど…。
果たして神聖な(生きている)人間などいるのだろうか。

まあ、神聖に見える人はいると思う。
穢れの無いように見える人もいる。
穢れらしき行動も意見も見当たらないし、本人の自覚も周りと同等に感じている者もいる。


それらの様は正常なのだろうか…。


私は人間とは穢れ多き生き物だと思うのだ。
だからといって、じゃぁ、汚いままで生きていればいいんだとか、そういう飛躍しすぎた意味ではなくて。
穢れは肉体に依存した遺伝のようなものなのだと感じている。
自然の法則にのっとり生を成し、あるがままの穢れをどうして浄化できようと思うのだ。

根源の穢れから生み出されたヘドロのように蓄積した穢れを浄化したいとまではわかる。
けれども、肉体に依存し遺伝となんら変わらぬ原型ともいえる「穢れ」を浄化するということは、
自分という存在そのものの否定にしかならない。
確かに人の好感度を考えれば、欲に塗れた人間よりも、神聖に見える霊能者やヒーラーの方が良いのかもしれない。
だけど、神聖化するために、自分の存在を否定してまで自虐的になってはいけないと思う。

必死でその位置へ辿り着こうとしているのかもしれないけど、なにかが違うと思うのだ。

幼い子供が、じいちゃんやばあちゃんに「痛かったね」と言われ心の温度が上がり涙がこぼれるように、最も身近に息づく人間が、本当の意味で神聖というように思える。

きっと、本当の神聖とは、
神聖化することとは無縁であり、
ましてや気にもしていない人間のみが
気がつけば辿り着かされる聖地なのではないかと思う。

神聖に近づこうという欲が神聖から遠ざける。
それは、良い人でいたいと考える人間が
良い人から遠ざけられるのと似ていると思うのだ。

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「本当の意味で過去を振り返る」ということについて考えてみる

友達や仲間。ばかをばかとして素直に笑い、時には共に涙を見せる。
だが、時には身近な立場から怒りの言葉を送る。
こういった事柄が回転して初めて関係が続く。

けれども、世の中にはそういった事柄を加味しても表面だけの関係ができあがることもある。

しかし、その関係が水面下で起こっている膿のような出来事を無視し関係を続けることもできるだろう。

けど、その膿が破裂することもある。

破裂した瞬間は互いが一瞬(もしくはその後のとても長い期間)現実を把握するには困難なことの方が多い。

ましてや膿の量が多ければ多いほど、膿という厄介な存在により思慮や配慮という人がいとも簡単に崩壊してしまう部分を膿が直撃してくる。

直撃されると当然、通常の実力以下のレベルで思慮や配慮を欠くことになる。



その時を振り返り、そんなこともあったと人は言う。



その時を振り返り、ああ言うしかなかったと人は言う。



その時を振り返り、若気の至りだと人は言う。



でも本当にそうなのだろうか。

その振り返る事実は過去の何を見て何を振り返っているのだろう。

それまで生きてきたことが不完全なりの完璧ということを理解しているはずなのに、それでも、そうやって浸る瞬間の多くの人は――、


振り返ることもせず前を見据えたまま哀愁に浸っている。


また、現実的な物事の整理はどこともなく消えてしまい、
ただあるのは手の平ですくった都合良く構成され書き換えられた思念なのかもしれない。

私自身、未だそういった意味で、人間の持つ自愛の深く柔らかな部分にまで到達していないのだろう。

だからこそ、こういった観点から物が言えるのかもしれない。


しかし、そんな私でも思うのだ。


現実が見えていない愚かさというものは
年を重ねたから身につくものではない。

ましてや自分を本気で正す意思が伴わなければ
「本当の意味で過去を振り返る」ことなど出来ないと思う。

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辿り着こうとする果て

人は時として本能のおもむくままに行動をする。
事が大きくなれば犯罪となり、
事が小さければ食事や他愛も無い行動となる。

全ては本能という無意識から湧き上がる感情によって支配される。
当然、霊的に言えば本能という観点とは異なった位置から支配を受けている。

本能は卑しく醜く汚らわしいのかもしれない。

たとえ、その人間が社会的にどれほどの功績をのこしていたとしても、
遺伝として備わったベースが悪に偏っていたりしたら、
どこまで上り詰めても機能的な意味も含めて充実感など存在しない。

だが、その意味は
人間が儚く木偶のようなものということにもなるし、
どんな人間であっても、それがどのような状況であっても、
それらの環境のもとにある人間の精神は
自由だというのと同じことなのだ。

***

さて、そういった感性も含め
人間が生きるために備わった脳がある。

また、脳は神業ともいえる機能を持っている。

だが、その神業は時として生きるためだけに稼動し、
自分自身が気がつかないポイントで「自分(の脳)に騙される」。

しかし、そういった機能としての神業を自分自身の肉体から見出すことは
とても難しく困難だと言える。


前文で、全てが本能により支配されている。と言ったけど、
本能は支配しようとしているだけで
実際は支配できないのだということ。

逆に、
なぜ支配できてしまうのかというと、

それは自分が本能に賛同し、
同等の意見だと最終決断を下すからなのだ。
つまり、自分が決定しない限り、
(本能から湧き出た思いを)脳が単独(この単独とは少なくとも本能を司るエリア)で「最終決断」などできないということ。

まあ、この部分は幾らでも話が間延びしてしまうので
このあたりで止めておきます。

ところで、今まで使っていた思考回路がありますよね。
その回路は脳機能が必要に応じて提供してくれた回路。
この思考回路以外に、思考回路と言う名の道筋は幾万通りもあるはず。

でも、
使わない道は封鎖されてしまう。
バスに乗る人が少ないからこの路線は通らなくしますというのと一緒。

で、こういった機能に支配されつつある人間の肉体だけど、
支配されつつあると言うことは
支配されてはいないわけで。

ということは、
その残り粕のような数パーセントがなんなのかと言うと…

「自分の意思」

と言われている部分。

じゃぁ、自分の意思ってなに?
意思とは本能から生え出た思いとリンクしたもの。
更に、自分がどんな思いであろうと「こうだ」と認知したもの。

その「こうだ」と思えるものの判断基準が思考回路と関与している。

しっかり使ってないと
脳に騙される。

でも
しっかり使っていても
脳に騙される。

それだから脳は神業なのだと思うのだ…。

けどね、
数パーセントの何かが何だったとしても、
その数パーセントが認めたものが

今の自分の気持ちや意思

となってしまう。

その気持ちや意思が脳に騙されてた結果なのかもしれないし、
騙されていないかもしれない。
その基準や判断をすることは専門家でなくては万人には無理だ。

だからこそ、
状況分析をしないことや
感情を前面に出した行動は
途轍もなく危険だといえる。

それでも、
自分自身が今わかる範囲、
それが自分の中での

真実

だということ。

間違っていたとしても、
正当だったとしても、
なんだったとしても、

それが真実でしかない。

だから、
ひとつひとつ丁寧に繰り返すことで
本当が生まれる。

その本当とは、
この世で間違っていても、
狂っていたとしても、
自分の中で本当なら本当なのだ。


精神が旅に出てしまうと
何処まで旅を続ければ良いのかわからなくなる。
それでも、
そんな場合であっても、

わからないことがわからない

という、その思いが今の本当なのだと
そう思います。

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自分はどこにいる…

生きているとむしゃくしゃして何もかもがどうでもいいように思えることがある。



生きていると


生まれてきて好かったと心から命を敬う時もある。



たくさんの思いが交差する中で、私が日々感じていることがある。



どうしようもない、予想外の展開があった時、ましてやそれが最悪な状況として起こった時。

そんな時にどう考えるか。

そんな時にどう心の軸を定めるか。

そういう瞬間瞬間が、人間性を成長させていくものだと思う。


予想外の展開の時、多くを上手くいかせようとせず、大切な何かだけを選べばよいのだと思う。


その大切な何かは、もしかしたら後々、間違いだったと知るかもしれない。或いは、コレでいいんだと揺るぎなき自信を得るかもしれない。ま、それが後にどう反映するかはどうでも良くて…。


大切なのは今のこの瞬間の選択だよねと思う。

大切なのは今のこの瞬間にどれだけ本気なのかだと思う。


未来の素敵な展開ばかりを夢見ていたとする。
或いは、未来の計画が完璧だったとする。
そのために今があるとするよね。

でも、心は本当に痛んでいない?

本当にそれでいいの?

計画は大切。何事にも大切だよ。


でもね、生きているのは、今のこの瞬間の連続でしかない。
今を生きていなければ、思いが伝わらないこともあるし、
愛を失うこともあるし、
だから、今のこの瞬間が大切なんじゃないのと思う。


感情と思考は別々の脳エリアにある。けど、連動もしている。
だとしても、注意深く自分を観察していると、その違いが分かることもある。

自覚できる感情が、自分の本当だとは限らない。

無意識からの自分のサインを見送り続ければ、いつしか人は神経を病むだろう。



実際の本当の自分に気がつくには、

感情に対して
温存し、触れ合い、激しくぶつかることもある。

そして、思考の助けも必要なのだ。
この思考は、頑張った分だけきちんと答えてくれる。
吸収し血肉になったものが、不健康か健康かはわからない。
だとしても、結果は正直に出る。

努力なしに人は変わらない。
でも、そう考えずに、それが栄養分だとしたら?
知ることに対し、知れば知るほど自分の血肉になるのだから、紛れも無く栄養分だよね。

自分の精神に活力を与える。
その脳部位は脳が稼働している限り蓄え続けられる。

今からでは遅いなんてことはない。
今からが楽しみだ、それで好いと思う。

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自由とは

こうでなくてはいけないという決まりや法則、そして、法の裁きというものがある。
それを守らなければ確実に守らないことへの代償を背負わされる。
法に触れない、捕まらないだけ、そんなのだとしても見えない代償が返る。

それを守らなければこうなってしまうよ。


そして、


その結果、コレだけのものを失い


コレだけのダメージを受け


最後には、



きっと、こうなってしまうよ。



という一筋の予測が立てられる。
その予測は物事を行動に移す時に思考の一環として取り入れられ、だから、どうしたいのか。どうするべきか。などと考えるもの。

そんな時、
最悪の結果が自分にとって選択したくない事柄だから選ばないというのもあるし、

また、
最悪の結果が来ても、それだとしても、選ぶというのもある。

或いは、
何も考えていないとか……。で、最悪の方を感情に流され選んでしまうこともある。


でもね、そういうのって、人それぞれの感じ方が違うから、正しいとか正しくない、或いはまともだまともじゃない。なんて感想がバラバラにかえってきたりもする。ま、当然というか自然にそうなるだろうねと思う。

人間は社会というルールの中で生活しているから、犯罪に手を染めないように意識しているところもあると思う。ただ、そんな中でも、社会のルールがあるから犯罪に手を染める人もいるのだと思うし。



けれどもね、一呼吸して考えてみて。


それって……


そういうのって、



自分の中で決断して選んだ自分だけの自由なんじゃないかと思う。



犯罪賛成とか、奇妙な宗教賛成とか、



そんなんじゃなく。



人間はどんな状況であれ、自分だけの自由を選択しているのだと思う。



本当はというか現状での人間って、
自分の好きなように生きているのが人間だよねと思うの。

気がつかなかったとしても、

上手くいかないとしても
苦しいとしても
悲しくても
極上の多幸感の中に居たとしても

何だったとしても、それは、皆が選んだ自由だよね。

各々が選んだ自由だよね。

草木が天気を変えることを出来ないのと一緒で、
人間も変えられない環境とか、
身動きの取れない過去のトラウマが潜んでいたりとか、
いろいろあるだろうけど…

それだとしても、

その中で、
自ら選んでいるのが不幸だとしても幸福だとしても苦悩だとしても…


それら全ては、

自由という型の無い

自由を手にしているのだということ。



想像力――。
それは型を崩し心の視力を高めるもの。

手放し、
放棄し、
荒れ狂う前に…
もう一度、人間の遺伝子として稼働している自分の中の自分へ、
気付きを――。

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プロフィール

HN:
軒龍卑(haruka)
年齢:
54
性別:
女性
誕生日:
1969/11/06
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
占い・読書(ほぼ仕事の本)・ガーデニング・その他諸々
軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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