白月光
My thought(私の思想)|呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

あなたは本当の自分で生きてますか?

独奏そして重奏

才能とは独奏という音色をどんなに奏でても
肉体に埋もた仮死状態でしかない。

この世の見えない法則では

重唱という共同作業でのみ
才能に対する最高の効力を発揮するもの。

それはどうしてなのか
今の私には明確に理解できないのだけれど
ただ、そうだとしてもハッキリと言えることは
感覚や思い込みといった曖昧なものではなく
紛れもなく論理的な順序だった法則に則り
そういった効力が発揮できるものなのだと
そんな風に思っています。


http://www.youtube.com/watch?v=iufvavUPwNI

独りで生きてはいけないというその意味を
安易に捉え
曖昧に把握してしまえばそれまでだけれど

そうじゃなくて

独りでは生きていけないというその意味の本当を
もう少し思案してみてもいいのかなと
なんとなくですが感じました。

まあ、そう思えたので忘れないうちにここへ書き留めておこうと…。
そんな気持ちで書いてみました。

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希望的観測と論理的な真髄

こうだったらいいな

そんな希望的観測で安易に物事が進んでいけるのなら
どんなに楽だろうね。

希望的観測とはいっても、
自分では論理的だと確信している場合も在る。

それって、危険。

人が時として犯してしまうミスだよね。

対象となる物事や人物をあなどると痛い目に合うもの。


けどさ…
最近はよくよく思うんだけど

結局は全体を読めない。

ここに焦点が当たるだけなんじゃないのと思う。

確かにおごり高ぶりは足元をすくわれるけど。
でもね、そうじゃなくて
すくわれるということ自体、見落としているということだよね。
精神や意識を集中するのにたいし、無駄なポイントに(精神や意識の)割合が偏ってしまっているということ。

つまり

本当のことが理解できる体制では無いということでしょ。

まあ、思考を整理し思案するには感情が邪魔。だとしても、そう簡単には消せないよね。と思うだろうけど…。
人間はもともと動物というか、遺伝子に組み込まれた本能が窮地に立たされた人間へ(遺伝子が自動的に)智を与えてくれるもの。
智には感情という物事は存在しない。

その域を飛び出た

なんというか…

聖域のような

そんな時空があって

その時空とは
遺伝子に依存した脳が
智という名のもとに稼動する状態。


これがまた人間の神秘なんだと感じている。


人の脳は使い方。
ひとつひとつが素晴らしい才能を持っていても
組み合わせという表現(コミュニケーション)をした時に
イメージをマイナスにしてしまうこともある。

組み合わせとは、点と点を結ぶ「線」のこと。
線を何処に引くかによって表現方法が異なり
果ては、人間性という評価となっていくもの。

だからこそ

本能という遺伝子に依存した智を引き出せるほどに思案し
希望的観測という安易な人生ではなく
論理的な真髄に的を当て生きていけたらとそんな風に思います。

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本当のことを知ることと信じることは異なっている

人を信じられない。
だから自分も信じられない。
この公式の比率は絶対で変わることは無く。

だけれども

世の中には信じてはいけない人も存在しているのも本当。


けどね…
華麗な色彩と人を魅了する華を憑け悪臭の中で生きている者だとしても
ボタンを掛け間違うみたいに何時もと異なる現実が続けば
時として善という白の世界へと足を向けることも在る。

それは運ともいうし

必然の結果でも在る。


一筋では物事は考えられないし
心の余裕は人を育ててくれるもの。
どんなに辛くても
腹が痛くなるほど楽しかったとしても
どの位置からでも心の余裕は見つけ出せるもの。

それはまるで宝探しのように
輝いていたりする。

手放すものは夢であってはいけなくて
手放すのは無駄という意味も無く執着している心の存在を手放せばいい。
手放すのは勇気ではなく智の鍛錬により完成するもの。

たくさんの情報が溢れている現代。
その中には中心になっているこの世の本当がたくさんあって。
どれが本当か分からないという誰かの考えではなくて、
唯一無二の本当が存在している。

その本当を知り

だからこそ

どうしたいと思う自分が居るのか。

ただそれだけの思いが信じることと異なりを見せる。
それだとしても、その思いを貫いた場合、結局、最後は信じることと相通ずるものとなるのがこの世の神秘だと感じる。

全ては結果であり
また、結果に辿り着くまでには
精神の真髄に依存した心の宇宙が繰り広げる神話が在る

そういう物語たちの集結でこの世は在るのだと…

そんな風に思えたりもする。

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natumeさんへお返事です

さて、今回は先日ブログ記事へコメントを入れてくれたnatumeさんへの回答を私なりにしていこうと思います。

鬼が全面に出ている人を相手にするということは、自分の精神力を試されているようなもの。
つまり自分の未熟さが辛い状況にも関わらず有り得ないくらいに自分へ重圧をかけてくる。
自分へ重圧を与える相手が大切な存在であれば在るほど、のしかかる重圧は重苦しく、自分自身を更に奈落の底へと引き擦り込んでしまうもの。

だからといって自分の精神力が生えてでてきてくれる訳でもなく…

現実は悪循環として虚しく空回りする。

まあ、鬼を前面にした相手を前にしたらこんな状況や心境が目に浮かぶ気もします。


私、こういうのって結局は生き方なんだって思うんですよね。
なんていうか、その鬼を全面に出している相手に対し、いかに自分が本気になれるかということなんじゃないかって思うんですよ。
本気だからこそ、自分の中の真意を智という技を駆使し、いかに伝えられることができるのかという。要は今の自分という人間性が多いに関与しているのだと。

ただね、
相手の鬼が髄にまで浸透してるのか、していないのか。
という回答の中心にテーマが迫ると、それは鑑定しないと当然わからないです。

だとしても、そのエリアの判断の全てを含めたとしても、言えることは前文と同じですね。

だって…
本気で伝えることが大真面目な話し合いである場合も在るし
また
酒を呑みながらなんとなくの流れにあえて乗せたまま話したりもするし
そして、日常の中での口論もあり、会話の中にもあるし。

そういうひとつひとつの表現が人間性ですよね。

だとしたら、やっぱり伝えることが苦しくても続けるしかなくて。
だけれども、その前に、相手の鬼の本当を見る目も必要なわけで。

けどね、結局は、今の私自身という現実の自分でしか対処できない。
それは必然の道理でしかないんだよね。

どうにもできないことまで
どうにかしようとしたら
心が疲れてしまうよ。

今の自分にできること。

まあ、それを丁寧にこなしていくことでしか正の道は存在しないからね。

まずは
問題を抱えすぎている自分。
できないことまで、できるんだって自信過剰になっていないか。
そういう盲点を探り、そして手放すこと。

多くを抱えて潰れるのではなく、身軽にしてひとつを確実にこなしていくこと。
それを目標にしたらどうかなと思う。

それとnatumeさん。
更なる質問を受け付けますよ。
遠慮なく、どうぞ。
鑑定に値する場合は告知するので、思ったことを書いてくれて構わないです。

また、スルーしてしまってもぜんぜん平気ですよ。

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恐怖心という心の中に棲む魔物

理性は恐怖心に勝てない。

そういう言葉を聴いたことが在る。
確かに恐怖心が全開になっていたら理性など何の役にも立たないし
ましてやそれまでに頑張って積み上げてきた智でさえも透明にしてしまうもの。

それくらい恐怖心とは
下手すれば人格を根底から崩してしまうほどの破壊力を持っているもの。

しかし

その恐怖心とは本当のことを直視できぬが故に起きている心の現象なのだろう。

また
その本当から目を逸らすことを逃げるという。


たとえば恐怖心の原動力のひとつに、自分の能力を超える事柄へ抱く「恐怖」というものがある。

それは、事柄からの重圧はどうあれ、
その事柄により失敗する可能性という予測という意味なのだけど。
そういう予測(時として妄想)を感じると自動的に脳内で軽い異変が起きるもの。
その異変は神経でも在るし、分泌物からのものでも在る。

けれども

それらの重圧という失敗から目を逸らし逃げるということは
結果的に適当な人間だとしか判断されない。
そしてその適当とは真剣ではない者。いい加減に、中途半端に物事を捉えている者。
という評価を得ることになる。

この評価は他人から見たらというよりも
この世の本当なのだと感じている。

誰の心にも恐怖心はある。
だから、世界を渡り歩くような社会的成功を収めている者ほど、恐怖心は魔物のように巨大だろうと察するもの。

その魔物の存在とは
成功という責任を遂行するには必要な切符のようなもので

だからこそ

大成するものだとそう思う。

人は最後まで人であり
人で在るからこそ
人としての責任を真剣に捉え
心の躍動と共に責任を遂行できたらと思う。

また

成長過程の何処に位置していたとしても
そういう人で在り続けたいと思う。

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優しさという幻影

優しさって行動の結果をひとくくりして
優しさと称しているもの。

現在進行形の

優しいという人など居なくて。

居るといえるとしたら
それは
その優しいということをしているその人以外の
他の人間が、誰かが、感じたことでしかないもの。

もしも
優しさがこの世に在るとしたら

じゃあ、その優しさとはなんなのか。

優しくしようと思って優しくできるその優しさとはなんなのか…。

そういう疑問というか、
ある種、理解するという枠を超えた聖域の場からそういう言葉がでるよ。

誰かが本当にこの人は優しいと言ったとしても
現在進行形で優しさを遂行していると見られている誰かからしたら

ただただ信念でしかなくて。
信念を貫き
そして貫き通したその後に

誰かが

優しいと
素晴らしいと

そう絶賛しているだけのことでしょ。

つまり優しさとは
現在進行形では存在してなくて
行動の結果論でしかないんじゃないかと思うの。

…お話は少しだけ飛ぶけどさ。

信念を貫いた瞬間に
信念の意味を余りにも知らぬ者が絶賛し賞賛していたりすると

心が萎えてしまうことが在る。

その人との位置を
計れやしないのに
心の何処かで定規が生まれ
勝手に寸法を計っていってしまうもの。

けれども
その心で感じた感覚は
かなしみではなくて
本当の感情は
たとえ自分の心であっても
よくよく観察しないと
浅はかに見落としてしまうもの。
心のもっと奥深い場所に
慈愛という生き物が生息していたりするもの。

……んで、話を戻すけどさ。

難しいことは書いたりはしないけど
私の中での優しさという事柄は
というか私の考えでしかないのだけれど

優しさだと見えているそれらの深意は
信念の忠実な遂行でしかなくて
そこに慈愛が在るからこそ
他者が見て取った時に
優しさだと後付で括れるものだと。
結局、現在進行形の優しさなんて存在しないのだと。

なにをどんな風に考えても、結局は、そう思うんだよね。

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まとまりのないお話でごめんね…(苦笑

今日の福島市は晴天。
空が気持ちいいですね。
天気がよすぎて頭がいたくなりそうかも(笑)

ところで
お盆は今日までですね。

やっと開放されるのかと密かに喜んでいたりしています。

だって

今回のお盆は

なんだか知らないけどさ
霊障を受けてしまった。

だからね

明日に日付が変われば
この苦痛から
開放されるのだ(笑)


まあ、霊感があると
憑いたとかそういうのって分かるけど
それってそういう感覚が無い方が善いよ。なんてこともよく耳にする。

けどね

分からなかったら
分かってしまっている私からしたら
こわいかも。
なんてね思うよ。

知らないなら中途半端に分かるよりも
知らないでいた方がいいだろうけどさ。

だとしても
仕方ないよね
こういう感覚は持って生まれたものだし。
それに、持たない人もいるのが当たり前だし。

まあ、なんていうの
私の顔とあなたの顔が違うように
この感覚も違うんだよ。
そんなものなんじゃないのかと最近は思うんだよね。

確かに霊感は
この世と
あの世と
その狭間の
さまざまな本当を映し出すもの。

本当のことを理解していないと
振り回されるのが霊感。

霊感が100%正しく入ってきても
脳内の処理でミスれば
伝達された霊感のメッセージは
嘘を口から吐き出すもの。
つまり人格というか思考も多いに関与しているのが霊感。

けれどもね

それって

そういう思考回路は人間なら持たされて生まれてくるものだよね。
ああ、霊感の思考回路ではなく
霊感というものを省いた上で
つまり
伝達された物事が正しくても
脳内の処理でミスるというその意味なんだけどさ。

でね

その思考回路のパターンって
脳が脳に騙される
そんな風に思うの。

まあ、このことは何度と無く記事にしていると思うからスルーするけど。

この思考回路は
私が占い師だから矯正するのではなくて
私が私の身体機能を使いこなし
より善い人生を生きていくために矯正をしているよ。
ただ
その理由のひとつに占い師だからというのも当然あるよというだけね。


そういうのを考えていくとさ
人って不思議だよね。

体の機能もそうだし

色んな考えや

色んな感性があって

魅力がたくさんあるでしょ。

もっと触れたい
もっと近づきたい
そんな風に魅力在る人はたくさんいてさ
そういう人間になれたらいいなと思う。

だけれども

そういう人間になりたいと思うことが
例えば赤色だとしたら

それをまんまで実行に移すと
緑色になったりしてしまう。

そう、自分の精神が赤を求め
忠実に動いても
精神が他の色になってしまうということだよ。

でもね

それは当たり前で。

だって
そういうヤツになりたい。
という目標には中心が無いもの。

しかも
知らないはずの何者かになりたいのに
知らない何者かが今のこの時に自分の脳内に存在している。
つまり
こういう人。
それが存在している事態、妙だよね。

なんていうのかな
伝わりづらいかもしれないけどさ

まだ知らないものになりたいのに
知らないものを知っている

この地点で既におかしいのに

更に

その状態で達成しようとしている自分がいる。

じゃぁ、なりたいものは何になりたいの?
目的が曖昧なのに何処にいくの?

という話になってしまう。

だから
赤色をまんまで成し遂げようとすると
他の色になる。

最近、それが分かったんだよね。

でね
その目標に対し
目標となるものの知らないことの中に
私の場合は浸かり続けるの。

それも
今この時にということもあるし
ある一定期間も在るし
また同時進行も在る

そうして
自分の中で
予測という「きっとこういう感じ」というものを考える

けれども

全てを保留にする。

時期がたち
保留にしていた何かが
分かったとしても
正しかったとしても
それでも保留にする。

だって
まだまだ成長したいしさ
ここで可能性を潰したく無いもんね。

まあ

そんな感じで生きていますよ。

そんなところでお話はお終い。はい。
んで、今日はこれから出かけてきますね。

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本当の安らぎを追い続けて

人は心の中でどんなに思っていても
それらを行動という眼に見える事柄に変換して表現しないと
周りは理解なんかしてくれなくて
周りは認めてなんかくれなくて

でもね

それは

当然のことなんだよと思う。


思っていることが伝わるでしょ。
こうすればあなたは分かってくれるよね。
言葉で言わなくたって伝わるでしょ。

それって

単なる言い訳なんだよね。


だから

結局

行動というものは
行動だけを美化させることでどうにかなると思われがちだけど
そんなんじゃなくてさ。

つまり
行動とは

心の思いを

時を刻む針のように

素直に伝えるための


我が心にのみ在る唯一無二の術(すべ)。


そんなんでしかないのだと感じているよ。


たとえば嫌な気持ちが心の中で渦巻いていたとしても
そういう時の素直って
黒く醜い気持ちをそのまま伝えることでもなくて
明るい意味に変換し誤魔化すことでもなくて

ただただ

心の中の
温度が高くなっている
その部分の渦巻く思いを
言葉として出した時

尋ねる気持ち

そんなものにしかならないんだよね。



この世で

自己の中で

何がどうなっても

決して変わらぬ

心の事実というものがある。

それは

その事実は


「言葉は行動を矯正し行動は心を表す鏡」

なんじゃないのかということ。


だって
行動の全てはかなしくも儚くも

本当という真理の表れでしかないのだから。



だからこそ

計算された行動という偽善の表面じゃなくて

心という内面が本当の心を行動として表すものだと

そう思えるよ。


それだとしても、結局は理解してもらえないかもしれないよ…。

案外、そう思うかもしれない。

でもね

それを受け取る側の
見抜く側にも
同じことが言えるわけでさ。

まあ、それを言ったら
「その(相手の出した)リアクションを知った時の自分」というポジションにも同じことが言えるけどね。



偽りの偽善は
何時しか剥がれ落ち
誰かの心に刃物を突き立てるもの。

行動としての美化された
行動としての洗練された
そういった技は

この世にごまんと溢れているし
そんなまやかしで心を奪われてしまう瞬間とかもあるけど


それでもね


そんな上辺だけのまやかしや幻想を磨いても
心や精神は腐れていくだけだよと
素直から掛け離れていくだけだよと
そんな風に思う。


自分の中だけの常識は
時として
とても大切な誰かへ刃物を突き立てるし
抉(えぐ)り取ることもしてしまうでしょ。

だからこそ

世の常識を理解しないといけないとは言わないけど
この世の中を
平らに
また、命在る生き物として
全体を読み取るということ。
それは欠かしてはいけない精神の洗練。

命と命の繋がりは
生半可なことでは繋がれないものだよ。

丁寧に丁寧に
下手で善いから
丁寧に。

不器用で善いから
丁寧に。

それは
赤ちゃんへ初めて贈るプレゼントを
一生懸命に編んでいる姿と似てて

だから

間違った網目があったら
いらつくとかじゃなくて
心の贈り物をしたいからこそ
間違ったところまで網目を解いたりして。

誤魔化しも技だよとは言うけれど
そんな言い訳は要らないでしょって思うのね。

そうやってさ
本当の一生懸命という
命の繋がりだけが
自然に意識なんかしなくても
密になっていくものなんだと思うよ。

嘘や偽り
傲慢や高飛車
誰かを自分よりも下に見ること

そういうのって
精神が洗練されていくことを邪魔するし

ましてや

世の常識という生き物の全体を捉えることや
平らに見ることなんかもできなくなるわけで。

だから
そんなものは
自分で生き辛くなるものでしかないんだよと思うの。

折角この世に命をともし
生を受けているのだから
自分が本当はどんなヤツで
どんなことができて
どんなことが好きで
どんなことが嫌いなのか

そういう
まやかしの鎧が無い
原寸大の
丸裸のままの
自分の本当を知ること

そんなのがほんのちょっとでもできたら
少しだけ善いことをしている気がして
仮に、それが数年後に
その気持ちが間違いだと浅はかだったと知ったとしても

それだとしても

少しだけ善いことをしている気がするから

それだけで心が救われたり
洗われたりもするし。

きっと
自分に善いことをしつづけていたら
大切な誰かにも
その善い気持ちをわけてあげたいなって
心から思えたりするものだよ。

拘る自分に拘ることをやめる。

たったそれだけのことだし
プライドを捨てた時に本当の誇りが出てくれたりして
生き易いものでしょ。

なんてね…
今の私はそんな風に感じています。

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プロフィール

HN:
軒龍卑(haruka)
年齢:
54
性別:
女性
誕生日:
1969/11/06
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
占い・読書(ほぼ仕事の本)・ガーデニング・その他諸々
軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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